ぼろぼろぼろ

 大粒の汗が、子ども用スマホの画面にしたたり落ちた。
 茜はハンドタオルを取り出して額をぬぐい、そのまま画面の汗も拭きとろうとした。しかしタオルはもうすっかり湿っていたため、うまく拭きとることができなかった。やむを得ず、表示がはっきり見えるまで、その液晶部分を何度もシャツの袖にこすりつけた。
(ここらへん……なんだけど……)
 あらためて画面を覗きこむ。さきほどからずっと、地図用のアプリは立ち上がったままだ。目的地のフラグと、自分の現在位置のフラグとは、たいして離れていないように見える。確かにそう見える、のだが……。
 茜は辺りを見渡した。正面にはどこまでも続く、長い長いアスファルトの道があった。左右にはうすら高い塀や電柱がそびえ立ち、その奥には大小さまざまな家々が並んでいる。通りには人気もなく、それどころか犬猫の姿すら見えない。よそよそしくも寂しげな、郊外住宅の一景が広がっていた。
 さらに――頭上で輝く真夏の太陽が、茜をさらなる別世界へと誘っていた。薄っぺらな黄色い学生帽だけでは、その熱を遮ることなどできはしない。すでに視界の先は蜃気楼のごとく霞んでおり、幼いながらも順序立てて考えようとする思考回路は、その動きをすっかり鈍麻させていた。
 ランドセルの縁にぶら下げていた水筒に手を伸ばしてみる。ただそれはとうに空になっていることを、再認識しただけに過ぎなかった。コンビニなどどこにも見当たらない。昔ながらの小売店すら同様である。自動販売機は目にするものの、クラスで一番小さな茜の背丈では、どんなに手を伸ばし、どんなにつま先立ちをしても、商品のボタンを押すところまでたどり着けないのであった。
(あつい……よお……)
 もうどれくらい歩いたことだろう。この町でバスを降りるまでは順調だった。なのにどこで迷ってしまったのだろう。
 表示は何度見ても変わらない。子ども用とはいえ、アプリはそれなりに動いているはずだった。ひょっとして登録した情報が間違っていたのだろうか……。
 母から届いた一通の手紙。なぜだか父は、それをびりびりに破いてゴミ箱に捨ててしまっていた。あいにく住所はちゃんと読めはしなかったけれど、郵便番号だけは見て取れた。今日はそれを頼りに、ここまでやって来たというのに。
(かえろう……かな)
 とも思ったが、もはやどの道を通ってここまで来たのかすら、わからなくなっていた。足も痛くてこれ以上歩けそうにもない。だからといって、この炎天下の中で待ちぼうけてもいられない。せめてどこか休めるところはないものかと、茜はもう一度、必死に辺りを見渡してみた。
(あ……)
 気がつけばすぐ隣には、狭い駐車場が設けられていた。もとは家が建っていたところを、とりあえず更地にして再利用しているような場所だ。そこに日本では珍しい巨大なモンスタートラックが停まっていた。そんな車を見たのは生まれてはじめてだったし、その大きさにもすっかり圧倒されてしまったが、茜が特に目をつけたのはその車高だった。縦横に厚みのある太いタイヤをつけて、かなりの高さまでリフトアップされている。その間に人が入り込んでも、全然余裕があるように思えた。
 学校では危ないから車のそばで遊んではいけないと、きつく言い含められている。しかしそのトラックは動いていないのだし、すぐ誰かがにやって来るような気配もない。少しだけ、ほんの少しだけ、この強い日差しから逃れられたらそれでいいのだ。ただそれだけのことなのだ。茜はそうやって自分の行動を正当化し、駐車場の中へと入り、そのまま車体の下に潜り込んだ。
 日陰に入っただけで、明らかに空気が変わったのがわかる。コンクリートの地面は、生温かさは感じられるものの、じかに触れて火傷するというほどではない。茜はスカートを敷いたまま体育座りをすると、ほっと大きく息をついた。
(ママ……)
 しばらくしてから背中のランドセルを正面へと回し、中を開いた。教科書や筆箱と共に、昨日の給食で食べきれなかったパンも、ナプキンに包まれて残っている。茜はそれらを隅のほうへ押しやると、丸めた八つ切りの画用紙を取り出した。留めてあった輪ゴムをはずし、その場で紙を広げてみた。
 担任は『かぞくのひとのかおをかきましょう』とだけ言った。別に『おかあさんのかお』を、とまでは言われなかった。それでも茜は母を描いた。満面の笑みを浮かべた母親の表情を、画用紙いっぱいに一生懸命に描いた。
 まわりはその出来栄えをほめてくれた。別に教室に貼り出されたり、コンクールに出品されるといったレベルのものではなかったが、自分ではそれなりに満足をしていた。そして茜は、この絵を何としても母に見てもらいたいと思った。きっと母も喜んでくれるに違いないと思った。昔の母に、明るかった頃の母に、戻ってくれるのではないかと思った。そう思うと、居てもたってもいられなくなったのだ。
 今日は土曜日で、月一の午前授業がある日だった。それが終わってから、茜は集団下校にも加わらずに、一人で飛びだしていったのだ。父親は土日関係なく遅くまで仕事に出ているし、おもり役の父方の祖母は、駅のカルチャースクールに出向く日だった。その祖母が戻るまでに家に帰りつけておけば、何一つ問題ないはずだった。
 はずだったのに。
(…………)
 茜は絵を手にしたまま、立てた膝の間に顔を埋めた。だけど、もうどうだっていい。どうなったっていい。アイスが食べたい。ジュースが飲みたい。冷房の効いた部屋に戻りたい。マンガを読んで、ゲームをして、だらだらテレビを見ながら、ソファの上でそのまま眠ってしまいたい。それから、それからそれから……。
「おい、お前。そこで何をしている!」
 突然大きな声がして、はっとなった。それと同時に大きな手が伸びてきて、腕を捕まれた茜は炎天下の外へと引きずり出された。

「こんなところに入り込んで、危ねえじゃねえか」
 相手は太った中年男だった。髪を金髪に染め、どぎつい色のロゴの入ったTシャツに破れたジーパン、サンダル履きといったラフな格好をしていた。動くたびにジャラジャラと、腰につけたキーホルダーが音をたてる。それだけでも十分畏怖の対象にもなるというのに、男は黒くて大きいドーベルマンまで連れてきていた。
 その犬はまっすぐに茜の方を向いていた。真っ赤な舌と鋭い牙をのぞかせて、荒い息を小刻みに吐き続けている。何故だかその呼吸音が、『わかっているぞ。お前のことはなんでもわかっているぞ』と言っているように思えてならなかった。
「この辺りのガキじゃねえな。どこの小学校だ」
 茜は慌ててランドセルを背中に抱えなおした。直立の姿勢にはなったが、視線は下を向いてしまう。
「ひょっとして、迷子なのか?」
 さらに問いかけられたが、何も答えられなかった。どうして自分がこの町の子どもではないとわかるのだろう。
「いずれにしても、人んちの車の下で寝ちまうなんて、ふてえガキだ。ちょっと、そこの交番まで、一緒に来い」
(……『交番』?)
 その言葉にドキンとする。当然そこにはおまわりさんがいて、そしてそのまま逮捕されて、牢屋に入れられてしまうかもしれない。そうでなくとも、父親が呼び出されて、こっぴどく叱られてしまうことだろう。そうなると母の元へは、もう二度と来ることができなくなるのではないか……。
「聞こえないのか。とにかくこっちへ来るんだ」
 男はそう言って、もう一度茜の腕をつかもうとした。
(ごめんなさい!)
 彼女は思わず、深々と頭を下げた。と、ランドセルがきちんと閉められていなかったらしく、その中身が勢いよく辺りにぶちまけられた。
「ウォン!」
 あのドーベルマンが低い声で吠えたかと思うと、いきなりあらぬ方向へと走り出した。
「あ、こら!」
 男もそれに引っ張られる感じで、茜の元から離れて行った。驚いて顔を上げると、給食の残りのパンが、ころころと駐車場の端まで転がっていくのが見えた。どうやら犬はそれを追いかけて行ったらしい。
(……逃げなきゃ)
 そう思うと茜は、急いで散らばっている教科書などを詰めなおして駈けだした。背後で何か男が叫んだようだったが、それも無視して一心不乱にその場から離れて行ったのだった。

(…………)
 どれほどの時間が過ぎたことだろう。茜は母がいるはずの家の前に立っていた。この門構え。二階建ての家屋のシルエット。表札には母の旧姓が書かれている。以前まだ仲が良かった両親と共に、車で訪れた時の記憶と照らし合わせても間違いはないはずだった。
 母はいきなり訪れた自分を見て、なんと思うだろう。喜んでくれるだろうか。それともすぐに叱りつけるだろうか。でも、そんなことは些細なことである。早く母の顔が見たい。どんな表情であってもいい。母に会えるだけで、それだけでかまわないのだから。
(ママ……)
 茜は門のポストについている呼び鈴を押してみた。「ピンポーン」という乾いた音が、かすかに家の中に響いているのがわかる。茜はなんだかそわそわして、身なりを整え、笑顔を浮かべる準備をした。
 ピンポーン。ピンポーン。
 だが何度呼び鈴を押しても、誰も出ては来なかった。
 家を間違えたか。そんなことはない。では引っ越してしまったのか。でも表札はかわっていない。買い物にでも出ているのだろうか。だったらもう少し待っておいた方が良いのかもしれない。
 しかし……。
 門には鍵がかかっていて、中に入ることはできそうになかった。辺りを見渡したが、隣家にも通りにも、相変わらず人の気配は感じられない。日は傾きつつあるとはいえ、やはり日差しは強いままだし、何よりそろそろ帰らないと、祖母が自分がいないことに気付いて騒ぎ出すのではないだろうか。
(…………)
 茜はギュッとその小さな手を握り締めた。今日のところは仕方がない。もともと無理な計画だったのだ。またいつだって来る機会はある。家の場所はもうわかったのだし、今度はちゃんと飲み物とかも準備して、いや、もう少し涼しくなってから来たっていいんじゃなかろうか……。
(そうだ。絵だけでも……)
 あの絵だけは、すぐにでも母に見てもらいたかった。自分が今日ここまでやって来たという証しでもあるし、なによりあれを見れば、今の自分の気持ちを理解してくれるに違いない。今でも自分は母を愛していること、母がいなくてとても寂しいのだということ、それらを十分にくみ取ってくれるに違いなかった。
 ポストにでも入れておくことにしよう。茜は急いでランドセルを下ろして、お目当ての品を取り出そうとした。
(……あ、あれ?)
 ところが、ランドセルのどこを探しても、あの絵は入っていなかった。
 ランドセルをひっくり返した。また辺り一面に中身が散らばっていったが、肝心の絵だけがみつからない。やがて茜は、ふっとあることに気がついてしまった。
(あの時……)
 最後に絵を眺めたのは、あの車の下に潜り込んだ時だ。その後、男に見つかって、急いでそこから逃げ出して……そのあたりから絵に関する記憶が曖昧になる。手に持ったままだったのか。それともランドセルにいったんしまったか。いやあの場でも中身をぶちまけてしまったのだから、拾っておかないといけなかったはずだ。それに最初は輪ゴムで留めていたのだから、それもつけ直さなければならなかったはずで……。
(…………)
 もはやあの駐車場に戻ることはできない。なによりあの場所がもうどこにあるのかすらわからない。あの絵に名前は書いてあったけれども、住所までは書いていないので、運よく誰かに拾われたとしても単なる落書き、あるいは単なるゴミにしか思われないだろう。
(うっうっうっ……)
 ぼろぼろぼろと、大粒の涙がしたたり落ちた。
 茜はその場に立ちすくんだまま、もはや力なく泣き続けるよりほかないのであった。


(終)


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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【第10回】短編小説の集い 』参加作品です。

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