親友との絆を確かめ合った時の話

 まさかこのビルが残っているなんて。
 何十年ぶりに訪れた故郷は、すっかり様変わりしていた。隔世の感というよりも、見知らぬ異国に紛れ込んだような錯覚すら覚えた。
 しかしこの建物だけは昔のままだった。
 残っているだけならまだしも、中に入ることもできたし、(息は切れたが)屋上に出ることもできたし、柵も乗り越えてこうして屋上の縁にまで立つことだってできた。
 あの時と、同じように。

 所詮は思春期の流行り病に過ぎなかったのかもしれない。
 あの頃のわたしは学業に悩み、恋に悩み、人間関係に悩んでいた。何の希望も持てないでいた。大人に相談するなどもってのほかで、携帯もネットもない時代では、『親友』と呼ぶたったひとりの同級生との会話の中に、不満のはけ口を求めるしかなかった。
「もう……死んじゃおっか」
 それはどちらの口からもれたのかは定かではない。だが、どちらが言ってもおかしくはなかったし、その言霊の魅力は格別であった。不幸な現状から脱却し、美しく転生する自分たちの姿を妄想した。
 そしてついに、
 ふたりしてここから飛び降りることに決めたのだった。
 
 ビルから見下ろす景色も、何ひとつ変わってはいない。
 すでに夕闇が訪れかけている時刻である。さらにビルとビルとの間はひどく密接しているため、大きな暗い影に辺りは覆われていた。そこから落ちれば永遠に、下までたどり着けないようにも思われた。
 なぜ自分たちは、こんなところを最後の場所と決めたのだろう。別にどこでもよかったはずだ。なのにわたしたちはこのビルを選んだ。ここには人を引き寄せる何かがある。世間知らずの女子高生だけでなく、生活に疲れた中年の主婦が、わざわざ訪れようと考えるほどの何かが。
「…………」
 風が吹いていた。ビルの谷間を這いあがってくる冷たい風。あの時も、同じような風がなびいた。そして……。

「じゃあ……行くよ」
 もはや顔すら覚えていない友は言った。眼下に広がる深淵の深さにおののきながらも、あくまで初志を貫徹しようと意地にもなっているようだった。
「……うん」
 そして自分もそれに負けまいと虚勢をはった。わたしたちは互いに手をつなぎ、大きく深呼吸をしてから、一歩前に踏み出した。
――その瞬間、
 一陣の風が吹き抜けた。
(……えっ)
 と同時に、いきなり何かに後ろから引っ張られて、わたしはその場に尻餅をついた。
(……なに? なんなの)
 振り返ると、長いスカートの端が屋上の柵に引っかかっていた。先ほどの風でまくれ上がった拍子に絡まってしまったらしい。
 わたしは急いでそれをフェンスからはがし、スカートの破れ具合を確認して、身なりを整えた。そこまでした後になって、わたしはことの重大さに気がついた。
「…………」
 その場に残っているのは、わたしだけだった。友はもう闇の世界へ堕ちてしまったことだろう。彼女をひとりで行かせるわけにはいかない。そういう約束だったし、それが友情というものではないか。
 しかし体はその意思に反して、後ろの柵を乗り越えていた。鞄を拾い、靴を履き直し、手書きの遺書もポケットにしまった。そしてすぐさま駆けだして、階段で一階まで降りて行った。一目散に自宅へと戻り、そのまま布団の中へと潜り込んだのだった。
 翌日の新聞に、友の死がわずか数行で記載されているのを見た。学校では追悼のための全校集会が開かれ、校長が長々と人生訓をたれた。一方このことで、わたしに追及の手が伸びてくることはなかった。警察からも教師からも親からも無視された。だから黙ったままでいた。やがて年月が建ち、いつしか自分は大人となっていた……。

 さらに今――。
 夫との会話が途絶えたのはいつからだろう。娘が言うことを聞かなくなったのはいつからだろう。寂しさからホストに入れあげ、借金するようになったのはいつからだろう。
それらも、何年か後には笑い話になるはずだった。
 はずなのだが……。
「……行くよ」
 顔を上げると、いつのまにかそこにはあの『親友』が立っていた。わたしの手を強く、しっかりと握りしめていた。
 同じだ。あの時と同じだ。そしてわたしだけが助かるのだ。なぜならこれは新たな人生を踏み出すための、儀式にすぎないのだから。
「……うん」
 わたしは大きく深呼吸をしてから、一歩前に踏み出した。
 ――その瞬間、
 一陣の風が吹き抜けた。

「……どうやら飛び降り自殺のようですね」
 気がつくと、闇があった。遠くで人の声がする。
「やり切れませんね……こんなところで。しかも女子高生が、『ふたり』も……」
 その後、いきなり視界が開けた。わたしをのぞき込むように、ふたりの男が立っている。ひとりは若く、もうひとりは中年だった。中年の男の手には、ビニールシートのようなものが握られていた。
「近くにいた浮浪者が、そのビルから落ちてきた瞬間を目撃したそうです」若い男が言った。どうやら現場検証にきた刑事らしい。
「ただ……」なぜか彼はそこで言い淀んだ。
「証言では、最初のひとりが落ちてきて、十分ぐらいしてから、もうひとりが落ちてきたそうなんです。その子は……どうして飛び降りるのをやめなかったんですかね。その間に、いったい何を考えていたんでしょうか?」
 中年の刑事は、ただ首をふるほかない。
 ――あんたたちなんかに、わかってたまるもんですか。
 わたしはそこから空を見上げようとしたが、その先はぼんやりとしていて、自分が落ちたビルの、あの無慈悲な屋上の柵すら捉えることができなかった。
 風もいつしか……静まってしまったようだった。

 

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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【第15回】短編小説の集い』参加予定作品でしたが、締切の日程を勘違いしておりました。

 参考程度にご一読いただけましたら幸いです。

 大変申し訳ございません。

 

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