ばらばら その6

第三章

 1

 その日は土曜日でした。
 母は休日にもかかわらず、朝早くから仕事に出かけていました。
 すでにお話しましたが、休日出勤や急な呼び出しは、珍しいことではありませんでした。しかもそんな日は、たいていは帰りも遅くなるのが普通でしたから、僕は母を送り出した後は、どこにも出かけず、そのまま家に残ってゴロゴロしていました。
 以前街で金田さんと出くわしてからは、どうにも外へ出るのが、人の多い場所を歩くのが、億劫にもなっていたんです。出かけるのは、夏休みシーズンが終わってから、涼しくなってからにしよう……だなんて、勝手なことを考えたりもしていました。
 ところが、夕方近くになって、いきなり母が帰ってきたんです。

 ちょうどまたうつらうつらしながら、居間で横になってテレビを見ていたときだったので、僕は大いに慌てました。ですが母は、そんな僕の姿など眼中にないかのように、バタバタと急ぎ足で奥の部屋へと入って行きました。そして旅行用のキャリーバックを引っ張り出すと、衣装ダンスのなかからあれこれ服を物色し、詰め込みはじめました。
 僕はあっけにとられていましたが、さすがにすぐに、後ろから声をかけました。
「ど、どうしたの、母さん。こんな時間に」
「前に言っていたろ。今から泊まりがけで出かけてくるから。明日の夜まで帰らないよ」
 母はこちらを見ずに、作業をしながら答えます。
「えっ、今から? どこに?」
 と、僕は当然の疑問をぶつけました。すると母は、
「……信州」
 とだけ、小さく早口で答えました。
「信州って……それだけじゃわからないよ。仕事は?」
僕は「信州」という言葉に、なぜか聞き覚えを感じながらも、質問を続けました。
「仕事は済んだよ。ノルマもきっちり達成したから、これからはプライベートさ。温泉にでも入って、浮世のうさを晴らしに行くんだよ……こんな毎日じゃ、ほんとやってらんないからね」
「金田さんも……一緒なの?」
 そう言うと、やっとそこで母の手が止まりました。
「あの人はもう先に行っているんだ。朝から向かって、もう現地に着いているころじゃないかね。だからあたしも、そこに行くんだよ。特急に間に合えば、今日中に着けるからね」
「……」
「本来なら、あたしも一緒の予定だったんだ。だけど仕事がずれ込んじまって、あたしの分の予約は、キャンセルせざるを得なくなっちまった。半ばあきらめていたんだけど、面倒ごとが案外早く片付いたからね。すぐにでも出かけることにしたんだよ」
 母は一気にそう言うと、また作業に戻りました。
 旅行計画は、実は裏で着々と話が進められていたようです。僕はそのことにも驚きましたが、母がかなり無理をしてまで会いに行こうとするほど、そこまで金田さんに惚れこんでいることも意外でした。
 普段は冷静な人物ほど、こと恋愛ともなると、われを忘れてのめり込み、まわりがまったく見えなくなる傾向があるといわれていますけれども、母の場合は、まさしくその典型であったのかもしれません。作業を進める母の後姿に、僕はまた何も言えなくなってしまって、のろのろと居間へ戻りました。また横になって、テレビを見ることだけに集中しようとしました。
 しばらくして、着飾った母が姿を見せました。明るい色した花がらのワンピースに、つばの大きな白い帽子。手にはブランド物のハンドバッグをかけ、さらに先ほどの真っ赤なキャリーバックを引きずっていました。精一杯若ぶった、リゾート風味の出で立ちです……なんだか僕は少し悲しくなり、それと同時にやるせなくもなりました。
 そしてそのときもなお、母の恋愛に関して、金田さんとの付き合いに関して、僕はまだまだ否定的な立場を崩していませんでした。どうせ今度も泣きをみる、心の奥底でそう思っていました。
「じゃあ行くから。戸締まりと火の始末はちゃんとしておくれ。帰りは明日の……まあ、遅くになると思うから。何かあったら携帯に電話するんだよ」
 母は財布から一万円札を出して、ちゃぶ台の上に置きました。
「食事は適当に買って食べておくんだね。あとそれと」
 と、ここではじめて母は、僕を正面から見据えて、
「……言っとくの忘れていたけど、明日の日曜に、あんたの予備校で統一模試があるらしいじゃないか。それを受けといで。いいね」
 そう言って、ハンドバッグのなかから取り出した封筒を、僕に向かって投げつけました。慌てて拾って中を開いてみると、受験料支払いの領収書と受験票が入っていました。確かに試験日は明日になっています。
「……何だよ、これ?」
「あたしがこないだ申し込んでおいたんだよ。今のあんたの出来栄えを知りたくてね」
 母は僕がまったく予備校に行っていないことや、毎日あちこちでサボっていることを、すでに気づいているようでした。それは後の言葉からでもわかります。
「あたしが、何も知らないと思っているならおめでたいね。帰ったら試験の出来と、あんたの今後の身の振り方について、じっくりと話すつもりだから、そのつもりでいなよ」
「えっ……」
「テレビなんか見ている暇があったら、さっさと机に向かうことだね……一晩あれば、ある程度は頭に詰め込めるだろ。前にも言ったかもしれないけど、浪人させてやれるのは、今年までだからね。わかったね」
 そう言い残して、母はさっさと出ていきました。
「……」
 僕は呆然と、その後姿を見送るだけでした……。
「……何を勝手なこと言ってんだよ!」
 そう怒鳴り散らしたのは、母が完全にいなくなって、だいぶたってからです。僕はその場に受験票をたたきつけ、自分のことを棚に上げて、母の仕打ちに憤っていました。「何を勝手な」「自分だけ好きなことを」……口にまで出したかどうか覚えていませんが、かなりの悪態をついていたと思います。
 ええ、ええ……確かに母の言い分ももっともです。ですが、これが以前、僕が金田さんの悪口を言ったこと(「クズ」呼ばわりしてしまったこと)に対する、母の仕返しということであるならば、どうにも理不尽さを感じざるをえませんでした。
 しかし、久しくその場で暴れもしましたけれども、冷静になってくると、現実を思い知らされるわけです。結局は自業自得であることを自覚するわけです。すぐにでも試験勉強をはじめないといけないとあせってくるわけです。なにしろ試験日は明日なのですからね。自室に戻って、埃のかぶった参考書をひっくり返しましたよ……。
 でもまあ……できることと言えば暗記、これも母の言うとおり、ひたすら頭に詰め込むことぐらいだったわけなのですが。あんだけ必死に勉強したのは、そのときが最初で最後だったんじゃないですかね。

 試験ですか? まあ付け焼刃の、一夜漬けの結果なんて、想像がつくと思います。さんざんでしたよ。せめて一か月、いや、一・二週間でもいい、もう少し事前に知らせておいてくれたら……なんて、ずっと考えていましたね。
 まあ受けている最中から、どうやらこの試験の出来なんて、相当ひどいものになりそうだな……って、わかってくるじゃないですか。そしたら、別の強迫観念が頭を占めはじめるんです。「やっぱり自分は駄目なんだ」「自分の頭の出来はこんなもんなんだ」ってね……おかしいでしょ?
 そりゃ、何度もいいますけど、努力していないんだから、勉強していないんだから、できなくて当たり前、ですよね……でも、なんて言うか自分が、運にまで見放されてしまったイメージでしたね。心を深くえぐられたような気にもなって、ひどく落ち込みました。当然この結果に、母が満足するわけはないですからね。そうなると、自分は今後どうなってしまうのか……ずっと、その暗い考えにとりつかれていましたよ。

 ……ところがおかしなことに、実際の試験結果については、とうとうわからずじまいなんです。いまだにね。
 そりゃ、調べようと思えば、調べられると思いますよ。結果も郵送されてきたと思うんですが、いろいろあってどこかに行ってしまって、わからなくなってしまいました。
 あんだけ苦労したんですけどね……あんだけ悩んだんですけどね……。
 今となっては、思い出したくもないですよ。もう、どうでもいいです。あなたの方で、調べてみますか? そりゃ、かまいませんけど、そちらが期待するような結果は、返ってはこないと思いますよ……。

 話を戻すと、試験が終わってから、僕は足取りも重く、しばらく街をさまよいました。どこをどう歩いたか、どこに立ち寄ったか、まったく覚えていません。もう大学進学はあきらめて、どこかに就職しなければならないのかって……働くと言っても、こんな自分に何ができるのか、見当もつきませんでしたし……いっそのこと、以前金田さんに頭を下げて、例のワンマン社長の会社に、あらためて紹介してもらうことにしようか……そんなことまで考えていました。
 自宅に戻ったのは、かなり深夜近くになっていたと思います。家の中に明かりがついていました。「遅くなる」と言っていた母が、もう帰ってまだ起きている証拠です。母が寝てしまっていることを期待していたのですが……僕はうなだれながら玄関のドアを開いて、小さく「ただいま」と言って中に入りました。そしてせまい廊下を進んで、母がいるであろう居間の方をのぞいて見ると……。

 母は部屋の隅に、あぐらをかいて座っていました。
 ちゃぶ台の縁に肘をついて、体をもたれかからせていました。
 そして、すぐそばには一升瓶が何本か、雑然と並べられていたのです。

 ……僕は酒がまったく飲めないんですけれども、母はかなり強い方で、時折、晩酌代わりに燗をつけることもありました。ですが、そのときは、燗ではなく瓶のまま、しかもそれらのほとんどが、すでに中身が無くなっている状態だったんです。目の前の湯のみ茶碗にも、なみなみと酒がつがれて、今にもあふれそうでした。
 顔だけでなく、手足の先に至るまで赤黒くなっていて、明らかに深酔いしているのがわかります。服装は出かけたときのままでしたが、ところどころはだけて、どうにもくたびれきった感じに豹変していました。さらに全身から酔っ払い独特の、すえたにおいも発していましたね……。

 母は僕が部屋に入ってきても視線を上げることなく、湯のみの方をじっと凝視していました。
「……か、帰っていたんだ。結構早かったんだね……」
 僕はとりあえず声をかけましたが、母は全く無視していました。そして目の前の湯のみに手を伸ばすと、それに口をつけ、そのまま一気に飲み干しました。
「……げぇぷ」
 母は低い大きなげっぷをしてから、すぐ側にあった中身が残っている一升瓶を引き寄せ、また湯のみに酒を注ぎ始めました。飲むときもつぐときも、かなりの酒がこぼれて、ちゃぶ台や母の服を汚していましたが、母はまったく気にしていませんでした。
「……」
 さすがに何かあったのかと思いました。僕は母の対面にまわって座りました。
「どうしたの、母さん……」
「……」
 母は答えませんでした。つぎ終えた一升瓶を、また傍らに置きました。
「母さん……黙っていちゃわからないよ。どうかしたの」
 やっぱり母は答えませんでした。震える手で湯のみをつかみます。
「……ひょっとして、金田さんと何かあったの」
「!」
 と、ここではじめて、母に反応がありました。両の眉毛がピクンと上に上がったかと思うと、それから視線とともにゆっくりと下がっていきました。
「母さん……!」
「うるさいね……何度も呼びかけなくてもわかっているよ」
 とうとう母は観念して、口を開きました。
「でも……」
「いいんだよ。放っておきな」
 と、取り付く暇なく、また茶碗の酒を飲み干しました。
「そうはいかないよ」
 僕はここぞとばかり、母に詰め寄りました。
「何かあったのかい。心配じゃないか」
「……げぇぷ」
 母はまた大きなげっぷをしただけで、後はだんまりを決め込みました。手だけを動かして、傍らの一升瓶を手繰り寄せようとしました。
「旅行先で何かあったの? 金田さんとけんかでもしたの?」
「……」
 母の手は、目当ての一升瓶から少しはなれたところで、ひらひらとさ迷い続けています。僕はだんだんと、イライラとしてきました。
「母さん!」
「うるさいねえ、いいかげんにおし!」
 とうとう母は怒鳴りましたが、僕は怯みませんでした。
「やっぱり金田さんと、『何か』あったんだね」
「……」
「そうなんだね……?」
「……ああ」
 ついに母は同意しました。さ迷っていた手が、ぱたりとちゃぶ台の上に落ちました。
「……やっぱり金田さんは……あの人は母さんとは合わなかったんだよ」
 しばらくした後、僕は母に向かって、なるべく穏やかなトーンで話しかけました。
「……」
「僕はこのあいだから、『あの人には裏がある』って言っていたじゃない……今度のことで、母さんもあの人の本性がわかったんじゃないの? 早い段階でそれがわかって、むしろよかったのかもしれないよ」
 僕はひどく饒舌になりました。前日の、旅行に出かける前の母の言動が、まだひっかかっていましたし、この日の試験の出来のこともあって、自分がいわゆる「世間知らず」で、人を見る目が無い「駄目なやつ」だ、という印象だけでも、なんとか払拭したかったのかもしれません。だんだんと強気に出るようにもなって、いささか母を見下すような気分にもなりました……まさに「鬼の首をとった」ようだとは、そのときの僕のことをいうんでしょう。
「とにかく、今日はもう休もうよ。明日も仕事でしょ。やけ酒なんてもう止めなよ。僕も今日は疲れているし、布団もひいてあげるから……」
 と、僕が立ち上がろうとした瞬間、
「お待ち!」
 母が置かれたままになっていた手を急に伸ばしてきて、僕の手首をつかみました。ものすごい握力でした。
「な、なんだよ。いったい……」
「いいから……いいから、そのまま……そこにお座り」
「……」
 何がなんだかわからず、僕は浮かした腰をまたおろしました。ですが、僕から手を離し、僕が座り直しても、母はなかなか口を開こうとはしませんでした。
「……母さん?」
「……」
 僕が、その重い沈黙に耐えきれなくなりかけとき、
「気分いいだろうねえ……」
 と、母は絞り出すような低い声で話し出しました。
「……えっ?」
「あの人とのことさ。あんたの見立てた通りだったってえことだろ」
「……」
「さぞかしいい気分だろうねえ。自分の母親が馬鹿みたいに見えるだろ……」
「そんなこと……」
「思っているんだろ! そうなんだろ!」
 母は、きっと顔を上げて言いました。その目は充血して真っ赤でした。泣いていたのでしょうか。酒のせいなのでしょうか。
「馬鹿な女が、口先だけの男にだまされた……世間じゃよくある話だあね……」
「だまされたって……何が、あったの?」
「女の方は心底惚れ抜いていたっていうのに……いいようにだまくらかされてさ……それでも女の方が馬鹿だっていうのかね」
「母さん……」
 母は、僕の問いかけが耳に入っているのかいないのか、ただひたすらにしゃべり続けていました。
「……女手ひとつで、ボンクラ息子を、ここまで育ててきたって言うのに……女手ひとつで、世間の荒波を、丁々発止で渡り歩いてきたっていうのにさ……そんな女は、期待すら抱いちゃいけないっていうのかね」
「……」
 母の手が、また一升瓶を求めて、さ迷い始めました。
「……こちとら大変なんだよ。下げたくもない頭を下げて、言いたくもないおべんちゃらを使って、笑顔を張り付かせてさ……やってらんないよ、まったく。優しい言葉をかけてくれる男でも見つけとかないと、やってらんないよ……」
 母は、やっと傍らの一升瓶を引き寄せると、また湯のみに酒を注ぎました。
「でも、それが間違いだったのかねえ。それともただ、男を見る目がないのかねえ……」
 そしてまた、一気にそれを飲み干したのでした。
「……」
 ただ、今度は、げっぷは出しませんでした。
「あたしは高望みはしていなかったよ。見た目はへちゃむくれでもいい、身なりもだらしなくていい、金もなくてもいい……ただ、誠実でありゃいい。そう思っていたんだ」
「母さん、ねえ母さん……?」
 何かがおかしい。その疑惑が、僕の中で徐々に確信へと変わっていきます。背筋に何か冷たいものが走りました。
「清廉潔白とまではいかなくてもねえ。うそさえつかなきゃ……そう、うそはだめだね……」
 ふと、母の背後にある襖──つまり、今、僕の後ろにあるこの襖ですね──それがなぜか閉じられていることが、僕は気になりました。
 その奥には、母が寝泊りしている日本間があることは、すでにご説明したとおりです。確かそこは、母が旅行に出る前、服を着替えて荷物もって出てきた際に、開かれたままになっていたはずでした。僕は試験のことで頭がいっぱいで、他の部屋はそのままにして、出かけてしまいましたから……でも、それがそのとき、何かを「隠す」かのように、ビシャリと閉められていて……。
「そうだよ……あたしはそれほど心が狭い女じゃないよ。だから少々の融通はつけてきたつもりだよ……だけど……」
 僕はその奥の部屋から、黒いオーラのようなものがにじみだしているのを感じました。何かがある。この襖の向こうには、何か「不吉な」ものがある……と。
「うそはだめだよ……人間、正直じゃなくっちゃね……うそはいけないよねえ……うそをついたりするもんだから……だからあたしは……」
 僕はそっと立ち上がりました。母はなにやらブツブツつぶやいているだけで、今度は僕を引き止めたりしませんでした。
 僕はおそるおそる足を進めて行って、母の背後で閉じられた襖を、思い切って一気に開いてみました……!
 すると……。

 僕は見ました。
 部屋の中央に金田さんがいました。
 血だまりのなかに倒れていました。
 仰向けになって横たわっていました。

 ……近くに寄ってみなくても、金田さんが、すでに死んでいることだけはわかりました。
 母が……。
 母が……金田さんを、殺してしまったようなのです……。