雨は激しく

 ノックの音がした。
 安雄はしばらくの間逡巡していたが、絶え間なく音が続くので、あきらめて玄関のドアを開いた。
「やあ、ひさしぶり」
 目の前には、ひょろりとした背の高い男が立っている。
「ええと……」見たような顔だった。話したこともあるような気がした。だがいつどこでだったかまでは思い出せない。同級生? バイト仲間? 同じアパートの住人? どれも正しいようで、どれも違うような気がした。
「ひどいなあ。○○だよ。××ゼミで一緒だった……」
 肝心の名前もゼミ名もよく聞き取れなかったが、『一緒だった』と言われれば、それはそうなのかもしれなかった。
「……とりあえず入れてくれないか。びしょ濡れなんだ」見れば確かに上半身は濡れそぼって、頭からしずくも垂れている。いずれにしても、ここで追い返すのは気の毒に思えて、安雄は男を中へと引き入れた。
「雨……なのかい?」安雄はたずねた。「いきなりだよ」男は答えた。ふと彼は気になって、閉じかけたドアをもう一度開き、そこから外を眺めてみた。早咲きの桜のむこうには、澄んだ青空が広がっていた。
「降ってなんかいないじゃないか」と言うと、男は「そうかい?」と言って、ふっと笑った。人懐こい笑顔だった。さらに「でも濡れてしまったのは事実だからね」とつぶやいて、「良かったら、タオルを貸してくれないか?」と続けた。
「……」安雄は男からなるべく視線を逸らさぬように気をつけながら、いったん部屋まで戻り、すぐにタオルを手にして戻ってきた。以前、新聞屋が無理やりおいていったもので、未開封の状態だった。
「ああ、ありがとう」男は特に気にもせず、袋から出して、自分の頭にかぶせた。はじめはやさしく丁寧にタオルを髪にあてがっていたが、すぐにわしゃわしゃと力を込めてふきはじめた。
「おや……? なんだ、君も濡れているじゃないか」突然男が声をかけてきた。「えっ?」その言葉に安雄は思わず顔を上げた。「ホラ、そのズボン……」と言われてジーパンのすそを見、「そのシャツ……」と言われてデニムのシャツの袖をつまみ、「それに、その手はどうしたんだい? けがでもしたのかい?」と言われて両の手のひらを広げた。だが彼はなぜか、すぐにその手を腰の後ろへと、男の見えないところへと隠してしまうのであった。
「あと、その額は……ああ、それは汗か」言われるままに、今度はおでこのあたりをぬぐってみると、確かに滴るほどの量である。暑くも寒くもないはずなのに、どうしてこんなにも汗ばむのだろうか。「言ってくれれば、先にタオルを使ってもらったのに」男はすまなさそうな顔をした。
「いや、大丈夫だよ。これくらい……」と安雄は言ったが、次の瞬間思いもよらぬことを口にした。
「よ、よかったら、上がって、お、お茶でも飲んでいかない、かい?」
 ――ええっ?
 しどろもどろだったが、それは間違いなく、彼の口から洩れた言葉だった。
「いいのかい? でも、床が濡れちゃうし」「い、いや、いいんだ。フローリングだし。ふ、拭けば、いいんだから」「じゃあ、お言葉に甘えて」「ど、どうぞ。どうぞ」
 言葉が次から次へとあふれていった。安雄は驚き、自分に何が起こったのか、困惑していた。
「あれ? 引っ越しの準備でもしていたのかい?」先に部屋へ入った男が言った。六畳一間のその部屋は、驚くほど殺風景だった。備え付けのテレビやテーブルは隅にまとめられ、クローゼットや棚にはほとんど物が残っておらず、代わりにはちきれんばかりに中身が詰め込まれた段ボール箱が、壁に沿ってうずたかく積み上げられているのだった。
「それとも、なにかをするために片付けていたとか……」とさらに男はつぶやいた。
「『なにかをする』って……?」安雄はおうむ返しに答えた。「どういうこと、かな」口のあたりがこわばってしまって、うまくしゃべることもできない。
「だって、そこにビニールシートが」男が指さす方向には、青いビニールシートがあった。「しかもノコギリや包丁なんかも出しっぱなしで」別に指さした方向には、無造作に並べられた工具類があった。「新聞紙やティッシュをこんなにいっぱい何に使うんだい?」そこには古新聞やトイレットペーパーの山ができていた。
「それは……」
 まったく記憶になかった。しかしここは安雄の部屋なのだから、それらを用意したのも彼であるはずだった。
「ああ、ひょっとして日曜大工、ってやつかな?」男は自分の言葉に何度もうなずいて、「しかし余裕があるね……やっぱり、東京の一流企業に就職が決まった人は違うね」と付け加えた。
「ど、どっ……」
「どうして知っているのかって? そりゃそうさ。君は案外、有名人なんだぜ?」男は安雄の言葉を補いながら答えた。「そうでなくとも、僕は君のことなら、『なんでもわかっている』つもりだからね」そう言ってクスクスと笑った。
 ――なっ……。
 もはや心の中でも、安雄はまともにしゃべることができなくなっていた。
「まあいずれにしても、大事なものを忘れているじゃないか」男はすっと棚の前へ移動した。小さな写真立てが、うつぶせの状態で放置されていた。「おやおや」男はそれを立て直すと、中の写真をのぞき込んだ。どこかの遊園地を訪れた安雄と、その腕にしがみつく少女の姿が写っていた。「かわいらしい子じゃないか。ちょっと性格はきつそうだけどね」と言ってまた笑った。
「…………」
「この子も東京に呼ぶの?」安雄は答えなかった。「……っていうかこのタイプだと、断ってもついてきそうだよね」安雄は答えなかった。「思い込みも激しそうだから、その場しのぎに適当なことを言ったりすると、逆に面倒なことになるんだよね」安雄は答えなかった。「例えば……既成事実をでっちあげたりなんかして、追い込んでくるとか……」安雄は答えなかった……が。
「君は……いったい何者なんだ」
 まるで他人のような、かすれたしわがれ声だった。
「さっきも言ったじゃないか……〇〇だよ」
 やはり名前が聞き取れない。なにかひどいノイズのようなものが、そこの部分だけに覆いかぶさっているかのようだった。
「僕は、君なんて……知らない」
 だがこの瞬間に確信した。この男とは話したことはおろか、会ったことすらない。
「そうだっけ? まあいいさ。これから十分に『知り合う』ことになるんだから……」
 男は笑顔を浮かべたままゆっくりと近づいてきて、安雄の肩をたたいた。軽く触れただけのはずなのに、彼はその場に崩れ落ちた。
「おや、また雨が降ってきたみたいだね」
 その言葉にやや遅れて、雨音のような音が、かすかに耳に入ってきた。
「いや、違うな……なんだ、風呂場から聞こえているのか。ねえ、君。どうやらシャワーが出しっぱなしのようだよ?」
 安雄は膝をついたまま力なく振り返り、ユニットバスのほうを見た。そうだ。この男が来るまで、自分はそこに籠っていたのだ。体がひどく『汚れ』てしまったので、まずはそれを『きれい』にしなければならなかった。それからこの部屋で『作業』をしようと考えていて……それから……それから……。
 ――なんだ……雨はさっきからずっと、絶え間なく降り続いていたんじゃないか……。
 そしてこれから安雄が向かう先では、いつまでも、どこまでも、さらに激しい雨が吹き荒いでいくことだろう。


 (終)
 
 
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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【弟9回】短編小説の集い 』参加作品です。
 

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