ばらばら その3

第二章

 1

 それから二週間ほどたったある日のことです。
 この日もいろいろな出来事があって、長い一日となりました……。

 すっかり世間では、夏本番といった感じになっていました。街のあちらこちらで、はしゃぐ学生連中の波ができていて、どこもひどく混雑していました。
 時刻は昼過ぎだったと思います。僕はブラブラと、時間をつぶせる場所がないかと、さまよっていました。
よく行く大型書店は休業日でしたし、数日前パチンコでボロ負けしてしまったので、手元にはまったくお金がありませんでした。予備校に戻るには少々敷居も高く、家へ帰るにはまだ早すぎました。どうにも中途半端な時間帯だったんです。
公園の日陰で昼寝でもしようかとも思いましたが、いい年した大人がベンチでたたずんでいるだけで、警察を呼ばれかねないご時世でしたからね。なるべく人ごみを避けながら、歩き続けていました。
「やあ、秀一くん」
 そんなところで、いきなり名前を呼ばれて、心臓が止まるほど驚きました。振り返ると金田さんが、汗を拭き拭き立っています。「こんちわ。今日も暑いね」……人懐こそうな笑顔です。でもやっぱり、目は笑っていないようでした。
 マズイところを見られた、一瞬そう思いました。僕は小声で何か返事を返しましたが、きっと目は泳いでいたことでしょう。極度に緊張して、カチコチになっていたかもしれません。わきの下に、いやな感じの汗もかいていました。いつもこうして予備校をサボっていることを、金田さんに、よりにもよってこの人に、知られてしまったかもしれない……と思ったわけですからね。はたから見れば、いかにも挙動不審な態度にも写ったんじゃないでしょうか。
 でも金田さんは、そんな僕のふるまいなど眼中にないのか、それとも見えていても無視しているのかどうかわかりませんでしたが、「ちょっと涼んでいかないかい」と言って、顎をしゃくって近くの喫茶店へいざないました。僕は「はあ」とか「はい」とか、返事にならない返事をして、さっさと先を急ぐ彼の後をついていきました。
 繁華街にあるにしては、薄暗くてかなり寂れた雰囲気の店でした。冷房をかけすぎているせいか、急激に汗が引いていった代わりに、寒気すら感じられました。また、客は僕たち以外は、誰もいない様子でした。
 金田さんは水とおしぼりを持ってきたウェイトレスに、即座にアイスコーヒーを二つ注文して、「ウマいのをね」と、付け加えました。さらに、そのウェイトレスが行ってしまってから、「……で、いいよね」と、僕に確認するのでした。僕は小さくうなずいて、おしぼりで顔を拭き始めた金田さんの姿を見ているだけでした。
「この近くに、僕のお得意さんの会社があってね」
 と、金田さんは拭き終わったおしぼりを、テーブルの上に投げ捨ててから話しはじめました。
「……そこに寄った帰りなんだよ。そこの社長さんは、前の前の会社にいたころからの付き合いで、男気のある方でね。新しい保険のことを話したら、『よし金田が勧めるんならうちの会社の人間全員に入らせる』なんて言ってくれてね。大口の契約がとれたんでいい気分だったところに、君の姿を見つけたところだったんだ。だからここはおごらせてもらうよ。いいよね」
 僕はぎこちなく、愛想笑いを浮かべていたと思います。そんな僕にかまわず、それからまた金田さんは、一方的にべらべらしゃべりはじめました。
「いやー、でも、僕がこれまで一度で取った契約者数の記録には、到底及ばないけどね。そんときも、ほんと幸運が僕に味方してくれてさあ……」
 正直、聞くに耐えないと思っていました。自分には関係のない話ですし、とどのつまりは自慢話なわけですから。でも僕は、ヒマでしたし時間もつぶせるし、おごってくれるというなら好きにさせよう、少しは我慢してやろうと割り切ってはいました。
 ところが金田さんは、話題がまた別の契約話に移っていったあたりで、ふいに、
「ところで、秀一くん、受験勉強の方はどうだい?」
 と、矛先を変えて、僕の方に話をふりました。
 僕は、そのとき飲みかけていた水を吹き出すまではいきませんでしたけれども、さすがに不意をつかれて、また心臓が止まるような心地になりました。
「え……ええ、まあ……ぼちぼちです」
 僕はなんとか答えました。一方で、どこの何がぼちぼちなのかって、自分で自分に突っ込んでいましたね。
「そう……僕も経験あるけど、つらいよねえ、大学受験って。なかなか志望のとこの点数に手が届かなくてさあ。大いに苦しんだよ、僕もね……」
「はあ……」
「でも僕は運良く、いいところの大学に滑り込むことができて、後はずっとバラ色だったよ。バイトもサークルも恋愛も大いに楽しんだし、就職のときも、結局大学名がモノを言ったからね。やっぱり努力して苦労した分は、おのずとちゃんと帰ってくるものなんだねえ」
 なんだやっぱり自慢かよ、と閉口しはじめたところ、
「秀一くんはどこの大学を志望しているの? 学科は? 専門は?」
 矢継ぎ早に質問をしてきました。僕は慌てて、
「はあ、まあ……どこでも、入れるところでしたら……」
 と、お茶を濁しました。
「おやおや。あまり高望みしないタチなんだね」
 金田さんは笑いながら言いました。しかし、やっぱりその目は笑っておらず、ずっと冷めた感じで見つめられていましたので、僕はますます小さくなりました。
(どこの大学を志望しようと、あんたには関係ないだろ……)
 内心では、そう毒ついていました。
 ところが、金田さんは急に真顔になって僕に向き直ると、
「秀一くん、人生は大学だけじゃないぞお」
 と、言い出しました。 
(はあ? さっきと言っていることが逆になっていないか?)
 そう思う僕を尻目に、金田さんは話を続けました。
「最初に言っていた社長さんの会社、ビルの施工なんかの下請けを行う工務店なんだけど、あそこは今、ひどい人手不足なんだってさ。社長さんはワンマンなんだけど、会社はアットホームで家族的な環境なんだよ。皆仲いいしね。でも若い子があんまり長く居着かないそうなんだ。世の中不況って言っても、まだまだ若い人って高望みしているというか、変により好みしすぎだとも思うんだけどねえ」
(えっ?)
 なんだか話が、少しおかしな方向に進みはじめているのがわかりました。ですが、金田さんの話は止まりません。
「でも僕は、今は中小が狙い目だとにらんでいるんだ。小さいところからでも、コツコツと経験を積んでいって、いずれは独立すればいいだけだし、うまくいけば、大きく名や財を残すことだって不可能じゃないと思うよ……これこそ、男のロマンだと思うんだけどねえ」
 と、ちょうどそこへ注文していたアイスコーヒーが運ばれてきました。金田さんは、片手をあげてウェイトレスに形ばかりの礼をすると、ミルクとシロップを自分のグラスになみなみとついで、一気に半分ぐらい飲み干しました。
「僕はね、秀一くんにも成り上がっていく楽しさ、のし上がっていく喜びを、ぜひとも味わってもらいたいと思うんだ……それがいいよね。そっちの方がなんかいいよね。じゃあ、これからすぐに、社長さんに連絡して……」
「ちょ、ちょっと待ってください。急にそんなこと言われても」
 さすがに僕は口をはさみました。何を勝手に決めているのでしょう。
「そうかい? 君に取ってもいい話だと思うけどねえ。こんなこと、秀一くんだから話すんだよ。世間の荒波に立ち向かって、一人前の男になりたいとは思わないのかい」
 金田さんはそこまで言うと、ちょっと声のトーンを落としました。
「……君のお母さんの心配の種もなくなるっていうもんだしさあ」
 母が?
「あの……母が何か、言ったのでしょうか……」
 そっちが気になりました。
「いやいや、お母さんもね、いろいろ悩んでいるとは思うんだ……面と向かって言うことは、そりゃないだろうけど、君の将来のこととかさあ」
 金田さんは一瞬つい口を滑らせてしまった、といったような表情を見せましたが、すぐにまた話しはじめました。
「君も……このままじゃ駄目だと思っているんだろ、ん?」
「僕は……確かに、はたから見れば不安で頼りなさげに見えるかもしれませんが……将来のことも、きちんと考えています」
 たぶん……いえ、きっと、そうだったのでしょう……。
「へえ。じゃあ、どんな風に? 聞かせてくれよ」
 金田さんは大きく胸を張って、背もたれに体をあずけました。完全に僕を見下ろすような姿勢です。「さあどんな立派な考えを持っているか聞かせてもらおうじゃないか」「どうせたいしたビジョンなんて持っちゃいないんだろ?」……そんな内心の声が聞こえてきそうです。
「それは……」
 僕は結局、そのまま何も答えられませんでした。
 と、しばらくして金田さんは、突然笑い出しました。店内に響き渡るほどの大きな、甲高い笑い声でした。
「いやあ、失敬失敬。いじめるつもりはなかったんだけどねえ。そこまで思いつめるとは思わなかったんだ。悪かったね」
 金田さんはおかしくてたまらないという風に体をゆすり、懐からタバコを取り出して火をつけました。そして大きく鼻から煙を吐き出すと、
「秀一くんは、どうやらあまり世間ずれしていないようだね。君のお母さんは、よっぽど君を大事に育ててきたとみえる」
 そう言うのでした。もちろんそれは、嫌み以外の何ものでもありません。ですが僕には、それを言い返せるだけの力は、もうありませんでした。
「それに君はおとなし過ぎるよ。顔色は悪いし、太りすぎじゃないか。運動するなり鍛えるなりなんかして、少しは身奇麗にもしないとな」
 金田さんが僕の肩をバンバンとたたいて、また笑います。その笑いはもはや、はじめのころの抑えたポーズだけの笑みではなくなっていました。なんともいやらしい、下卑たものになっていました。こっちが金田さんの本当の「笑い」なのでしょう。
「でもまあ、さっきの話だけどね。真剣に考えておいた方が良いぞ。何度も言うけど、お母さんのことを考えたら、一刻も早く社会に出て、君が働いて楽をさせてあげた方がいいに決まっているだろう? モラトリアムもいいけれど、そんなものは麻疹みたいなもので、十代のうちに、終わらせなきゃいけないものなんだからな」
 完全に言い方が、説教口調になっていました。
 ここにも金田さんのやり方の一部が、垣間見えるかようでした。相手の立場が弱いとわかれば、一気呵成にずけずけと踏み込んでくる……。
「け……結構です。自分のことは……自分で何とかやりますから」
 僕はか細い声で、そう返すのが精一杯でした。
「そうかい。まあ、無理強いはしないけれどもさあ」
 金田さんはまだ何か言いたげでしたが、僕はすぐに立ち上がりました。へんな勢いがついてしまったので、一方の膝がテーブルに当たって、「ガチャン」と大きな音がたってしまいました。
「すみません……し、失礼します。ごちそうさまでした」
 僕はぎくしゃくと頭をさげて、席を立ちました。とうとう自分のアイスコーヒーには、一度も口をつけませんでした。
 外に出た僕は、照りつける強い日差しと、むっとした熱い空気に、思わずたじろぎました。それでも、すぐにその場から離れようと、必死に足を早めました。心の中は屈辱と怒りがぐるぐると渦を巻いて、それからどのようにして家に戻ったか、まったく記憶にありません……。

 そのとき、金田さんを「殺してやりたい」と思ったかって?
 そうですね……きっとそうだったんでしょうね。でも……思うことと、実際に手にかけることは違うわけで……。
 いや、今の話は別に、僕の中に芽生えた「殺意」についてではなくて、あくまで金田さんの人となりについて……つっこんだ説明というか、もう少し理解を深めていただこうと思っただけで……ただ、それだけで……。

 あなたはどんな風に感じましたか?
 金田さんは、面倒見のいい、男気のある、立派な人物だったと思いますか?
 金田さんに、好意を……感じることができそうですか?

 僕は……とうとう最後まで、金田さんを好きにはなれませんでしたけどね……。