ばらばら その2

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 母はずっと、保険の外交を仕事にしていました。
 訪問型の保険外交を専門としているというだけでも、その当時ですら、かなり怪しいことをやっていたとは思うんですが、そんな母でも女手一つで僕を育ててくれて、二年も浪人させてくれて、小遣いも含めた生活費を、すべてまかなってくれていたわけですから、感謝しなければならないのは承知しています。実際、有能でやり手ではある、ということは、金田さんからも聞かされた話です。
 なので、じゃあ普段どんな風に仕事をして、どんな風に業績を上げていっていたのか……なんていう具体的な話には、僕は関心を持とうとは思いませんでした。それについて、なるべく考えないようにしていました。聞いたところで、僕にはそれを受け入れる以外に、道はありませんでしたからね。
 僕はあらゆる面で、母に頼りきっていましたから、母が外で何をしようと、どのように稼ごうと、自分が養われている限りは、それに従おうと思っていました。
 さらに母はわが家では、ワンマンとして振る舞っていました。炊事洗濯掃除といった、いわゆる主婦業全般に関しても、すべて母が取り仕切っていましたね。僕は何一つ、家のことをさせてはもらえませんでした。ただかなりの気分屋であった上、いろいろなストレスがたまっているせいか、だんだんと扱いにくくなっていったのは困りものでした。そのころが、母のイライラのピーク、だったのかもしれません。
 例えば料理とかで、ちょっと味付けが濃かったり薄かったりして、思わず口に出したりすることがあるじゃないですか。すると途端に怒り出すんです。「自分は忙しい合間をぬってきちんと食事の用意をしたのに文句をたれるとは何ごとか」ってね。自分の思い通りにならないことがあると、すぐにかんしゃくを起こしてへそを曲げるんですよ、まったく……
 人間だから間違いはあるし、ちょっとした愚痴じゃないけど、気がついたことをつぶやいただけなんですけどね……。
 だから僕は、だんだんと母の前では何も言わないようになりました。なるべく母の目に付かぬように、母がいるときは、うちの中ではずっと小さくなっていました。
 
 ……まあ、一番思い通りにならなくて、一番目障りだった存在が、自分の実の息子であったわけですから、母の怒りは、もっともだとも思えるのですが……。
 
 ……話がそれましたね。
 そうそう、金田さんのことです。
「やあやあ、君が秀一くんだね。はじめましてこんにちは、金田です金田です金田です……ハハハ。よろしくね」
 母と一緒に入ってきた金田さんは、僕の顔を見るなりこう早口で自分の名前を連呼して、握手を求めてきました。僕は思わずそれにこたえてしまったんですが、その手は大きくて柔らかではありましたけれど、ひどく汗ばんでいてヌルヌルしていましたね。
 金田さんは続いて、恵美にも同様の挨拶と握手をして、それから部屋の中央にどかっと腰をおろしました。上着を脱ぎ捨て、ネクタイをゆるめて、手に持っていたセカンドバックを、ポーンとちゃぶ台の上に放り投げました。いかにもこの家のあるじは、たった今からこの自分だ、とでも言うように。
 僕の金田さんに対する第一印象は、あまり良いものではありませんでしたね……。
 
 金田さんはリラックスした体勢になると、ハンカチで自分の額や首すじの汗をぬぐいながら、今度は自分の自己紹介を、大声で話しはじめました。
 この春に母のいる会社へ転職してきたということ。もともとずっと営業畑を歩んできたこと。年は四十五歳、バツ一の独身であること。母には、大変「お世話」になっていて、今日も夕食の誘いを受けて、非常に感謝していること……などなど。
 金田さんのことで少し驚いたのは、その年齢でした。なんと、母よりも年下だったんです(母が外でいくつサバを読んで働いていたかはわかりませんが)。見たところ、二つ三つは年長のようにも思えました。彫の深い、濃い顔立ちのせいでしょうか。黒々と焼けて、色目の悪い肌つやをしていたせいでしょうか。猫背で小太りの、典型的な「オヤジ」の風体だったからでしょうか。
 でも、後になって恵美が言っていたことなんですが、服飾品なんかに関しては、そのときは結構良いものを身に付けていたんだそうです。スーツに靴下、汗を拭くハンカチなんかにいたるまで、よく知られたブランドものでそろえていたようですね。
 しかしそれらが、金田さんの「オヤジ」ぶりを中和していたか、と言われれば、その効果はあまり出てなかったと思いますけどね。服はともかく、ごてごてした金色の腕時計を、これみよがしに見せ付けられると……ね。
 でもまあ……何度も言いますが、僕もあまり人のことは言えませんからね。趣味や価値観なんて、人それぞれですし……どんなに悪趣味だったからって、どんなに気に入らない格好をしていたからって、だからって、その……「あんな目にあって当然」とは……さすがに思えないわけですから……。
 
 とにかく、その夜は金田さんと、そして恵美も一緒になって、夕飯を食べることになりました。
 ……母と金田さんの関係? ええ、すぐにわかりましたよ。金田さんの方はともかく、母は結構入れ込んでいるなって。その場ではずっと猫かぶっているみたいに控えめでしたし、何よりうちに呼んだ、っていうのがその最たる理由でしたね。また母の病気が始まった、僕はそう思っていました。
 すでにお話したように、僕にはちゃんとした父親がいません。でもそのかわり、父親「代わり」になってくれた人は、ごまんといました。つまりは母の愛人です。
 母は惚れっぽい人でした。小柄で色黒で痩せぎすで、自身はもてるようなタイプじゃなかったと思いますが、姉御肌で付き合い方もさっぱりしていたようですし、何より営業で培ったトークが武器になったんじゃないでしょうか。これと思った人がいれば、熱心に口説き落として、さらに進展していくと、自宅へ招待して手料理を振る舞うんです。それがいつものパターンでした。
 相手は……いろいろな人がいましたが、どれも少なくとも最初のうちは、特にまだ僕が幼かったころは、僕にとっても「いい人」たちばかりだったと思います。
 ただ、その蜜月期間はいつも短いものでした。一年ほど続けば、それだけでトップランク入りですよ。たいてい二・三か月か、よくて半年、ときには何週間ということもありました。僕の「父親代わり」の人は常に入れ替わって、その座が暖められることはまれでした。
 くわしいことは、当然母は何もしゃべろうとはしませんから、僕にはわからないことばかりなのですが、フラれるのはいつも母の方だったのではないかと思っています。かなり独占欲も強い人でしたから。すべて自分の思い通りにしようとしていたんじゃないですか。過干渉ぶりが耐えきれなくなって、男の方が根を上げて破談宣告。そんな展開を、想像するんですけどね。
 そのときも僕は、母と金田さんとの関係を、かなり冷めた目で見ていました。今度はいつまでもつのやら。そう呆れてもいました。これも言いましたけど、金田さんに対しては、最初から悪印象しか抱いていませんでしたから……なおさらですね。
 
 ただ、ひとつだけ、小さいけれども大きく違っていたと思うのは、たまたまその場に恵美も居合わせていた、ということなんです。そのことが、恵美の運命だけでなく、その場にいた他の三人すべての運命まで、大きく変えてしまったんじゃないか……ということなんです。
 もし恵美が……母たちが帰るよりも先に自宅へと戻っていたなら。ここで金田さんに、出会いなどしなかったなら。ひょっとして後々の「悲劇」は起こらなかったか、全く違うものになっていた。そうも思えるんです……。
 
 ……どうにも話がズレますね。
 
 金田さんはひたすら、ずっとずうっとしゃべっていました。
何でそんなにしゃべるネタがあるのかっていうぐらい、ひっきりなしにしゃべっていました。
 例えば、その日の夕食のメニューはカレーだったんですが、一口食べては、母の料理の腕をべた褒めするんです(たかがカレーですよ!)。味とか辛さとかはもちろん、具の肉やジャガイモなんかが、ちょうどいい柔らかさになっているとかなんとか言って(カレーを食べていてそこまで話すような人っていますか?)。さらに驚いたことに、それを聞いた母も、まんざらでもないみたいな顔をしているんです。開いた口がふさがらないって、ああいう場面に出くわしたときのことを言うんでしょうね。
 そのほか、僕が浪人生であることは、事前に知っていたと見えて、それとなく受験のノウハウみたいな話も、織り交ぜてきたんです。試験で高得点を取るコツみたいな話……不正スレスレの裏技の使い方……自身の大学受験のときの体験談や知人・知り合いらの珍騒動にいたるまで、あれこれ面白おかしく話していましたよ(これも詳しい内容についてもまったく覚えていませんけどね)。
 その後は、恵美を交えての、大学生活の与太話です。サークルだとか、講師に関するネタをいくつも披露していました。恵美はもちろん、母までがずっと笑っていましたね。
 
 ですが……僕はちっとも楽しめませんでしたね……。
 
 そりゃあ、なんというかその場の雰囲気というか、それに流される感じで笑って見せたりもしましたが、腹の底から笑えないというか、何だか「違和感」を感じていました。「何か変だぞ」って、もう一人の自分が警告を発しているような感じです。僕はその元凶を探り出そうと、いつしか金田さんを、こっそり観察するようになっていったんです。
 そして、だんだんとわかって来ました。
 まず気づいたのは……目です。目だけは、いつも笑っていなかったんです。なんていうんですかね……ほとんど動いていなくて……じっと一点を見つめているような感じで……試しに、目だけに集中して金田さんを見てみると、どうにも冷たい印象へとかわっていくんですね。
 そして声が……低いんですけど、やたらと張られて大きかったんです。これが緩急織り交ぜながら、果てしなく続くんですね。こう「自分の話を聞け聞け聞け」って主張しながら、ずっと……確かに話の内容自体は滑稽なんですよ。ためになる話もしてくれてですね。ですけど……こちらが休む暇すら与えられないとなると……聞く方も疲れてしまいますよね。
 金田さんもやり手のセールスマンであったことは、今度は母の方から、後々何度も聞かされた話なのですが、たぶん、その営業のやり方っていうのは、いつもそんな感じだったんじゃないでしょうか……勝手な想像ですけどね。
 最初は馬鹿話で釣っておいて、少しでも話しに乗ろうものなら、とにかくガンガンと話を続けて、こちらがひるんで疲れきって何も考えられなくなったあたりで、無理やり書類に判を押させて契約成立……みたいな。なんとも強引な方法でもって、業績を伸ばして行っていたんじゃないかって、邪推したりもするんですけれども。
 でもまあ、そのときはそこまではっきりと、その「違和感」を形にすることはできませんでした。僕は夕食を食べ終わるや否や、すぐに自室へと引きこもってしまいましたから。とにかくその場から離れたかった……というか、逃げ出したかったんです。そのときも……ね。
 僕の部屋は(よかったらあとで実際にご覧にいれてもいいですが)、玄関から入って左側、家の前の通りにも面した離れに位置していました。ここの居間とは、確かに距離だけは離れていたんですが、うちはこのとおり平屋で安普請ですからね、金田さんの声が、低くてやたらと響くこともあって、そこでの様子はまるまる筒抜けでした。机の上に参考書とかを出したりして、久しぶりに受験勉強をはじめたりもしたんですが、集中できずにすぐに投げ出してしまいました。
 僕は机のなかからタバコを取り出して、窓を開けてから火をつけました。母がタバコ嫌いでしたから、家ではほとんど吸うことはなかったんですが、イライラがつのって、どうにも我慢ができなくなったんです。
 続けざまに二・三本ほど吸って、それからはベッドに横になり、布団を頭から引っかぶって、ヘッドホンでラジオを聞いていました。ボリュームをめいっぱい上げて、金田さんの声やみんなの笑い声を、シャットアウトしようとしていました。
 ところがしばらくすると、誰かが僕の部屋のドアを開けようと、ガタガタさせているのに気がつきました(ドアは立て付けの悪い引き戸でしたから開けるためには少々コツがいりました)。なかから開けてみると、恵美がそこに立っていました。
「開けてくれて、ありがとう」
 と、恵美は言いました。
「あ、いや……」
「……騒いじゃってごめんね。お勉強の邪魔になっていないかな」
 それから、少し申し訳なさそうな顔をしました。
 きっと……恵美は恵美なりに心配して、僕の様子を見に来てくれたのでしょう。そんな風によく気がつく子でもあったんです……。
 
 ……すみません。最近どうにも涙もろくて……。
 
 しかし……やっぱり僕は、それを拒絶しました。
 僕が、離れてしまったのは、金田さんの話し方やその態度によるものもありますが、それよりも一番の理由は、恵美がそれを受け入れて、心の底から彼の話を、楽しんでいるように感じられたからです。
 僕には絶対にできないような芸当を、金田さんはやすやすと行っていました。単なるねたみとか逆恨みとか、そんな風にとられてもかまいません。でも僕は……そこに、すでに述べたとおり、何か「違和感」を感じていたんです。
 それに気づいたからこそ、恵美には……恵美にだけは、金田さんに惑わされないで欲しい、僕の側から離れないで欲しい、そう思っていました。その「違和感」を、共に感じ取って欲しい、そう願っていました。でも……でも恵美は……。
 彼女は「金田さんていい人ね」と、言いました。「あんなに面白い人はじめてだわ」とも言いました。「シュウちゃんもひとりで根をつめていないで金田さんのお話の輪に加わればいいのに」とそんなことまで言いました……なんと、愚かな。
「……勉強の途中だから」
 恵美の目の前で、ぴしゃりと戸を閉めてやりました。もうこれ以上、何を言っても無駄だと思いましたし、何より恵美を説得させる術を、僕は持ち合わせてはいなかったのですから。
 恵美は、しばらくドアの外から何か声をかけてくれていたみたいでしたが、僕の方で無視しました。またヘッドホンをして、布団にもぐりこんでしまいました。やがて恵美はあきらめて居間へ戻り、金田さんがやっと重い腰をあげるまで、彼の独演会につきあったみたいでした。
 そうして、長い一日が終わったのでした……。
 
 そうです。その日がすべてのはじまりだったんです。
 また僕を含めた四人全員が、「生きて」そろった、最後の日でもありました……。
 
 あれから何度も、その日の出来事を思い返します。そしてそのたびごとに、いつも考えるんです。そのとき僕は、後の「悲劇」を防ぐために、何かできることが、するべきことがあったんじゃないか、って……。
 僕はすでに、今お話したように、予兆のようなものを感じていたはずなんです。それを信じていれば……何か行動を起こせていれば……。
 
 じゃあ、何を、いったい、どうすれば……?
 
 それとも……僕には運命を変える力など、はじめから持っていなかったんでしょうか……どうすることも、できなかったんでしょうか……。
 あの……あなたはどう思いますか? 僕がやるべきだったことは、やってはいけなかったことは、何ですか? 何だったと思いますか?
 
 教えてください……ねえ……お願いします……。
 お願い……。