おーばーらいと

「君のお姉さんを裏切るなんてできないよ」と、義理の兄は言った。
 初めての告白はあえなく玉砕した。その場に二人でいることに耐えられなくなって、私は家を飛び出した。
「よっ、どうしたの暗い顔してさ」とぼとぼ歩いていると、クラス一のチャラ男に出くわした。「どこか遊びに行かない? ぱーっと騒ごうよ」
 私は彼に付き合うことにした。

 そのまま初めての朝帰りとなった。玄関に入ると、兄が立っていた。
「どこに行っていたの? 心配していたんだよ」ぎこちなく声をかけてくるその人の冴えない風体が、私の想いに上書きされた。
 ……どうしてこんな中年男を好きになったのだろう。
 私は目礼だけ返して自室へ向かった。早く横になりたかったのだ。

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 本作は『Twitter300字ss』企画参加作品です。

ばらばら その6

第三章

 1

 その日は土曜日でした。
 母は休日にもかかわらず、朝早くから仕事に出かけていました。
 すでにお話しましたが、休日出勤や急な呼び出しは、珍しいことではありませんでした。しかもそんな日は、たいていは帰りも遅くなるのが普通でしたから、僕は母を送り出した後は、どこにも出かけず、そのまま家に残ってゴロゴロしていました。
 以前街で金田さんと出くわしてからは、どうにも外へ出るのが、人の多い場所を歩くのが、億劫にもなっていたんです。出かけるのは、夏休みシーズンが終わってから、涼しくなってからにしよう……だなんて、勝手なことを考えたりもしていました。
 ところが、夕方近くになって、いきなり母が帰ってきたんです。

 ちょうどまたうつらうつらしながら、居間で横になってテレビを見ていたときだったので、僕は大いに慌てました。ですが母は、そんな僕の姿など眼中にないかのように、バタバタと急ぎ足で奥の部屋へと入って行きました。そして旅行用のキャリーバックを引っ張り出すと、衣装ダンスのなかからあれこれ服を物色し、詰め込みはじめました。
 僕はあっけにとられていましたが、さすがにすぐに、後ろから声をかけました。
「ど、どうしたの、母さん。こんな時間に」
「前に言っていたろ。今から泊まりがけで出かけてくるから。明日の夜まで帰らないよ」
 母はこちらを見ずに、作業をしながら答えます。
「えっ、今から? どこに?」
 と、僕は当然の疑問をぶつけました。すると母は、
「……信州」
 とだけ、小さく早口で答えました。
「信州って……それだけじゃわからないよ。仕事は?」
僕は「信州」という言葉に、なぜか聞き覚えを感じながらも、質問を続けました。
「仕事は済んだよ。ノルマもきっちり達成したから、これからはプライベートさ。温泉にでも入って、浮世のうさを晴らしに行くんだよ……こんな毎日じゃ、ほんとやってらんないからね」
「金田さんも……一緒なの?」
 そう言うと、やっとそこで母の手が止まりました。
「あの人はもう先に行っているんだ。朝から向かって、もう現地に着いているころじゃないかね。だからあたしも、そこに行くんだよ。特急に間に合えば、今日中に着けるからね」
「……」
「本来なら、あたしも一緒の予定だったんだ。だけど仕事がずれ込んじまって、あたしの分の予約は、キャンセルせざるを得なくなっちまった。半ばあきらめていたんだけど、面倒ごとが案外早く片付いたからね。すぐにでも出かけることにしたんだよ」
 母は一気にそう言うと、また作業に戻りました。
 旅行計画は、実は裏で着々と話が進められていたようです。僕はそのことにも驚きましたが、母がかなり無理をしてまで会いに行こうとするほど、そこまで金田さんに惚れこんでいることも意外でした。
 普段は冷静な人物ほど、こと恋愛ともなると、われを忘れてのめり込み、まわりがまったく見えなくなる傾向があるといわれていますけれども、母の場合は、まさしくその典型であったのかもしれません。作業を進める母の後姿に、僕はまた何も言えなくなってしまって、のろのろと居間へ戻りました。また横になって、テレビを見ることだけに集中しようとしました。
 しばらくして、着飾った母が姿を見せました。明るい色した花がらのワンピースに、つばの大きな白い帽子。手にはブランド物のハンドバッグをかけ、さらに先ほどの真っ赤なキャリーバックを引きずっていました。精一杯若ぶった、リゾート風味の出で立ちです……なんだか僕は少し悲しくなり、それと同時にやるせなくもなりました。
 そしてそのときもなお、母の恋愛に関して、金田さんとの付き合いに関して、僕はまだまだ否定的な立場を崩していませんでした。どうせ今度も泣きをみる、心の奥底でそう思っていました。
「じゃあ行くから。戸締まりと火の始末はちゃんとしておくれ。帰りは明日の……まあ、遅くになると思うから。何かあったら携帯に電話するんだよ」
 母は財布から一万円札を出して、ちゃぶ台の上に置きました。
「食事は適当に買って食べておくんだね。あとそれと」
 と、ここではじめて母は、僕を正面から見据えて、
「……言っとくの忘れていたけど、明日の日曜に、あんたの予備校で統一模試があるらしいじゃないか。それを受けといで。いいね」
 そう言って、ハンドバッグのなかから取り出した封筒を、僕に向かって投げつけました。慌てて拾って中を開いてみると、受験料支払いの領収書と受験票が入っていました。確かに試験日は明日になっています。
「……何だよ、これ?」
「あたしがこないだ申し込んでおいたんだよ。今のあんたの出来栄えを知りたくてね」
 母は僕がまったく予備校に行っていないことや、毎日あちこちでサボっていることを、すでに気づいているようでした。それは後の言葉からでもわかります。
「あたしが、何も知らないと思っているならおめでたいね。帰ったら試験の出来と、あんたの今後の身の振り方について、じっくりと話すつもりだから、そのつもりでいなよ」
「えっ……」
「テレビなんか見ている暇があったら、さっさと机に向かうことだね……一晩あれば、ある程度は頭に詰め込めるだろ。前にも言ったかもしれないけど、浪人させてやれるのは、今年までだからね。わかったね」
 そう言い残して、母はさっさと出ていきました。
「……」
 僕は呆然と、その後姿を見送るだけでした……。
「……何を勝手なこと言ってんだよ!」
 そう怒鳴り散らしたのは、母が完全にいなくなって、だいぶたってからです。僕はその場に受験票をたたきつけ、自分のことを棚に上げて、母の仕打ちに憤っていました。「何を勝手な」「自分だけ好きなことを」……口にまで出したかどうか覚えていませんが、かなりの悪態をついていたと思います。
 ええ、ええ……確かに母の言い分ももっともです。ですが、これが以前、僕が金田さんの悪口を言ったこと(「クズ」呼ばわりしてしまったこと)に対する、母の仕返しということであるならば、どうにも理不尽さを感じざるをえませんでした。
 しかし、久しくその場で暴れもしましたけれども、冷静になってくると、現実を思い知らされるわけです。結局は自業自得であることを自覚するわけです。すぐにでも試験勉強をはじめないといけないとあせってくるわけです。なにしろ試験日は明日なのですからね。自室に戻って、埃のかぶった参考書をひっくり返しましたよ……。
 でもまあ……できることと言えば暗記、これも母の言うとおり、ひたすら頭に詰め込むことぐらいだったわけなのですが。あんだけ必死に勉強したのは、そのときが最初で最後だったんじゃないですかね。

 試験ですか? まあ付け焼刃の、一夜漬けの結果なんて、想像がつくと思います。さんざんでしたよ。せめて一か月、いや、一・二週間でもいい、もう少し事前に知らせておいてくれたら……なんて、ずっと考えていましたね。
 まあ受けている最中から、どうやらこの試験の出来なんて、相当ひどいものになりそうだな……って、わかってくるじゃないですか。そしたら、別の強迫観念が頭を占めはじめるんです。「やっぱり自分は駄目なんだ」「自分の頭の出来はこんなもんなんだ」ってね……おかしいでしょ?
 そりゃ、何度もいいますけど、努力していないんだから、勉強していないんだから、できなくて当たり前、ですよね……でも、なんて言うか自分が、運にまで見放されてしまったイメージでしたね。心を深くえぐられたような気にもなって、ひどく落ち込みました。当然この結果に、母が満足するわけはないですからね。そうなると、自分は今後どうなってしまうのか……ずっと、その暗い考えにとりつかれていましたよ。

 ……ところがおかしなことに、実際の試験結果については、とうとうわからずじまいなんです。いまだにね。
 そりゃ、調べようと思えば、調べられると思いますよ。結果も郵送されてきたと思うんですが、いろいろあってどこかに行ってしまって、わからなくなってしまいました。
 あんだけ苦労したんですけどね……あんだけ悩んだんですけどね……。
 今となっては、思い出したくもないですよ。もう、どうでもいいです。あなたの方で、調べてみますか? そりゃ、かまいませんけど、そちらが期待するような結果は、返ってはこないと思いますよ……。

 話を戻すと、試験が終わってから、僕は足取りも重く、しばらく街をさまよいました。どこをどう歩いたか、どこに立ち寄ったか、まったく覚えていません。もう大学進学はあきらめて、どこかに就職しなければならないのかって……働くと言っても、こんな自分に何ができるのか、見当もつきませんでしたし……いっそのこと、以前金田さんに頭を下げて、例のワンマン社長の会社に、あらためて紹介してもらうことにしようか……そんなことまで考えていました。
 自宅に戻ったのは、かなり深夜近くになっていたと思います。家の中に明かりがついていました。「遅くなる」と言っていた母が、もう帰ってまだ起きている証拠です。母が寝てしまっていることを期待していたのですが……僕はうなだれながら玄関のドアを開いて、小さく「ただいま」と言って中に入りました。そしてせまい廊下を進んで、母がいるであろう居間の方をのぞいて見ると……。

 母は部屋の隅に、あぐらをかいて座っていました。
 ちゃぶ台の縁に肘をついて、体をもたれかからせていました。
 そして、すぐそばには一升瓶が何本か、雑然と並べられていたのです。

 ……僕は酒がまったく飲めないんですけれども、母はかなり強い方で、時折、晩酌代わりに燗をつけることもありました。ですが、そのときは、燗ではなく瓶のまま、しかもそれらのほとんどが、すでに中身が無くなっている状態だったんです。目の前の湯のみ茶碗にも、なみなみと酒がつがれて、今にもあふれそうでした。
 顔だけでなく、手足の先に至るまで赤黒くなっていて、明らかに深酔いしているのがわかります。服装は出かけたときのままでしたが、ところどころはだけて、どうにもくたびれきった感じに豹変していました。さらに全身から酔っ払い独特の、すえたにおいも発していましたね……。

 母は僕が部屋に入ってきても視線を上げることなく、湯のみの方をじっと凝視していました。
「……か、帰っていたんだ。結構早かったんだね……」
 僕はとりあえず声をかけましたが、母は全く無視していました。そして目の前の湯のみに手を伸ばすと、それに口をつけ、そのまま一気に飲み干しました。
「……げぇぷ」
 母は低い大きなげっぷをしてから、すぐ側にあった中身が残っている一升瓶を引き寄せ、また湯のみに酒を注ぎ始めました。飲むときもつぐときも、かなりの酒がこぼれて、ちゃぶ台や母の服を汚していましたが、母はまったく気にしていませんでした。
「……」
 さすがに何かあったのかと思いました。僕は母の対面にまわって座りました。
「どうしたの、母さん……」
「……」
 母は答えませんでした。つぎ終えた一升瓶を、また傍らに置きました。
「母さん……黙っていちゃわからないよ。どうかしたの」
 やっぱり母は答えませんでした。震える手で湯のみをつかみます。
「……ひょっとして、金田さんと何かあったの」
「!」
 と、ここではじめて、母に反応がありました。両の眉毛がピクンと上に上がったかと思うと、それから視線とともにゆっくりと下がっていきました。
「母さん……!」
「うるさいね……何度も呼びかけなくてもわかっているよ」
 とうとう母は観念して、口を開きました。
「でも……」
「いいんだよ。放っておきな」
 と、取り付く暇なく、また茶碗の酒を飲み干しました。
「そうはいかないよ」
 僕はここぞとばかり、母に詰め寄りました。
「何かあったのかい。心配じゃないか」
「……げぇぷ」
 母はまた大きなげっぷをしただけで、後はだんまりを決め込みました。手だけを動かして、傍らの一升瓶を手繰り寄せようとしました。
「旅行先で何かあったの? 金田さんとけんかでもしたの?」
「……」
 母の手は、目当ての一升瓶から少しはなれたところで、ひらひらとさ迷い続けています。僕はだんだんと、イライラとしてきました。
「母さん!」
「うるさいねえ、いいかげんにおし!」
 とうとう母は怒鳴りましたが、僕は怯みませんでした。
「やっぱり金田さんと、『何か』あったんだね」
「……」
「そうなんだね……?」
「……ああ」
 ついに母は同意しました。さ迷っていた手が、ぱたりとちゃぶ台の上に落ちました。
「……やっぱり金田さんは……あの人は母さんとは合わなかったんだよ」
 しばらくした後、僕は母に向かって、なるべく穏やかなトーンで話しかけました。
「……」
「僕はこのあいだから、『あの人には裏がある』って言っていたじゃない……今度のことで、母さんもあの人の本性がわかったんじゃないの? 早い段階でそれがわかって、むしろよかったのかもしれないよ」
 僕はひどく饒舌になりました。前日の、旅行に出かける前の母の言動が、まだひっかかっていましたし、この日の試験の出来のこともあって、自分がいわゆる「世間知らず」で、人を見る目が無い「駄目なやつ」だ、という印象だけでも、なんとか払拭したかったのかもしれません。だんだんと強気に出るようにもなって、いささか母を見下すような気分にもなりました……まさに「鬼の首をとった」ようだとは、そのときの僕のことをいうんでしょう。
「とにかく、今日はもう休もうよ。明日も仕事でしょ。やけ酒なんてもう止めなよ。僕も今日は疲れているし、布団もひいてあげるから……」
 と、僕が立ち上がろうとした瞬間、
「お待ち!」
 母が置かれたままになっていた手を急に伸ばしてきて、僕の手首をつかみました。ものすごい握力でした。
「な、なんだよ。いったい……」
「いいから……いいから、そのまま……そこにお座り」
「……」
 何がなんだかわからず、僕は浮かした腰をまたおろしました。ですが、僕から手を離し、僕が座り直しても、母はなかなか口を開こうとはしませんでした。
「……母さん?」
「……」
 僕が、その重い沈黙に耐えきれなくなりかけとき、
「気分いいだろうねえ……」
 と、母は絞り出すような低い声で話し出しました。
「……えっ?」
「あの人とのことさ。あんたの見立てた通りだったってえことだろ」
「……」
「さぞかしいい気分だろうねえ。自分の母親が馬鹿みたいに見えるだろ……」
「そんなこと……」
「思っているんだろ! そうなんだろ!」
 母は、きっと顔を上げて言いました。その目は充血して真っ赤でした。泣いていたのでしょうか。酒のせいなのでしょうか。
「馬鹿な女が、口先だけの男にだまされた……世間じゃよくある話だあね……」
「だまされたって……何が、あったの?」
「女の方は心底惚れ抜いていたっていうのに……いいようにだまくらかされてさ……それでも女の方が馬鹿だっていうのかね」
「母さん……」
 母は、僕の問いかけが耳に入っているのかいないのか、ただひたすらにしゃべり続けていました。
「……女手ひとつで、ボンクラ息子を、ここまで育ててきたって言うのに……女手ひとつで、世間の荒波を、丁々発止で渡り歩いてきたっていうのにさ……そんな女は、期待すら抱いちゃいけないっていうのかね」
「……」
 母の手が、また一升瓶を求めて、さ迷い始めました。
「……こちとら大変なんだよ。下げたくもない頭を下げて、言いたくもないおべんちゃらを使って、笑顔を張り付かせてさ……やってらんないよ、まったく。優しい言葉をかけてくれる男でも見つけとかないと、やってらんないよ……」
 母は、やっと傍らの一升瓶を引き寄せると、また湯のみに酒を注ぎました。
「でも、それが間違いだったのかねえ。それともただ、男を見る目がないのかねえ……」
 そしてまた、一気にそれを飲み干したのでした。
「……」
 ただ、今度は、げっぷは出しませんでした。
「あたしは高望みはしていなかったよ。見た目はへちゃむくれでもいい、身なりもだらしなくていい、金もなくてもいい……ただ、誠実でありゃいい。そう思っていたんだ」
「母さん、ねえ母さん……?」
 何かがおかしい。その疑惑が、僕の中で徐々に確信へと変わっていきます。背筋に何か冷たいものが走りました。
「清廉潔白とまではいかなくてもねえ。うそさえつかなきゃ……そう、うそはだめだね……」
 ふと、母の背後にある襖──つまり、今、僕の後ろにあるこの襖ですね──それがなぜか閉じられていることが、僕は気になりました。
 その奥には、母が寝泊りしている日本間があることは、すでにご説明したとおりです。確かそこは、母が旅行に出る前、服を着替えて荷物もって出てきた際に、開かれたままになっていたはずでした。僕は試験のことで頭がいっぱいで、他の部屋はそのままにして、出かけてしまいましたから……でも、それがそのとき、何かを「隠す」かのように、ビシャリと閉められていて……。
「そうだよ……あたしはそれほど心が狭い女じゃないよ。だから少々の融通はつけてきたつもりだよ……だけど……」
 僕はその奥の部屋から、黒いオーラのようなものがにじみだしているのを感じました。何かがある。この襖の向こうには、何か「不吉な」ものがある……と。
「うそはだめだよ……人間、正直じゃなくっちゃね……うそはいけないよねえ……うそをついたりするもんだから……だからあたしは……」
 僕はそっと立ち上がりました。母はなにやらブツブツつぶやいているだけで、今度は僕を引き止めたりしませんでした。
 僕はおそるおそる足を進めて行って、母の背後で閉じられた襖を、思い切って一気に開いてみました……!
 すると……。

 僕は見ました。
 部屋の中央に金田さんがいました。
 血だまりのなかに倒れていました。
 仰向けになって横たわっていました。

 ……近くに寄ってみなくても、金田さんが、すでに死んでいることだけはわかりました。
 母が……。
 母が……金田さんを、殺してしまったようなのです……。

親友との絆を確かめ合った時の話

 まさかこのビルが残っているなんて。
 何十年ぶりに訪れた故郷は、すっかり様変わりしていた。隔世の感というよりも、見知らぬ異国に紛れ込んだような錯覚すら覚えた。
 しかしこの建物だけは昔のままだった。
 残っているだけならまだしも、中に入ることもできたし、(息は切れたが)屋上に出ることもできたし、柵も乗り越えてこうして屋上の縁にまで立つことだってできた。
 あの時と、同じように。

 所詮は思春期の流行り病に過ぎなかったのかもしれない。
 あの頃のわたしは学業に悩み、恋に悩み、人間関係に悩んでいた。何の希望も持てないでいた。大人に相談するなどもってのほかで、携帯もネットもない時代では、『親友』と呼ぶたったひとりの同級生との会話の中に、不満のはけ口を求めるしかなかった。
「もう……死んじゃおっか」
 それはどちらの口からもれたのかは定かではない。だが、どちらが言ってもおかしくはなかったし、その言霊の魅力は格別であった。不幸な現状から脱却し、美しく転生する自分たちの姿を妄想した。
 そしてついに、
 ふたりしてここから飛び降りることに決めたのだった。
 
 ビルから見下ろす景色も、何ひとつ変わってはいない。
 すでに夕闇が訪れかけている時刻である。さらにビルとビルとの間はひどく密接しているため、大きな暗い影に辺りは覆われていた。そこから落ちれば永遠に、下までたどり着けないようにも思われた。
 なぜ自分たちは、こんなところを最後の場所と決めたのだろう。別にどこでもよかったはずだ。なのにわたしたちはこのビルを選んだ。ここには人を引き寄せる何かがある。世間知らずの女子高生だけでなく、生活に疲れた中年の主婦が、わざわざ訪れようと考えるほどの何かが。
「…………」
 風が吹いていた。ビルの谷間を這いあがってくる冷たい風。あの時も、同じような風がなびいた。そして……。

「じゃあ……行くよ」
 もはや顔すら覚えていない友は言った。眼下に広がる深淵の深さにおののきながらも、あくまで初志を貫徹しようと意地にもなっているようだった。
「……うん」
 そして自分もそれに負けまいと虚勢をはった。わたしたちは互いに手をつなぎ、大きく深呼吸をしてから、一歩前に踏み出した。
――その瞬間、
 一陣の風が吹き抜けた。
(……えっ)
 と同時に、いきなり何かに後ろから引っ張られて、わたしはその場に尻餅をついた。
(……なに? なんなの)
 振り返ると、長いスカートの端が屋上の柵に引っかかっていた。先ほどの風でまくれ上がった拍子に絡まってしまったらしい。
 わたしは急いでそれをフェンスからはがし、スカートの破れ具合を確認して、身なりを整えた。そこまでした後になって、わたしはことの重大さに気がついた。
「…………」
 その場に残っているのは、わたしだけだった。友はもう闇の世界へ堕ちてしまったことだろう。彼女をひとりで行かせるわけにはいかない。そういう約束だったし、それが友情というものではないか。
 しかし体はその意思に反して、後ろの柵を乗り越えていた。鞄を拾い、靴を履き直し、手書きの遺書もポケットにしまった。そしてすぐさま駆けだして、階段で一階まで降りて行った。一目散に自宅へと戻り、そのまま布団の中へと潜り込んだのだった。
 翌日の新聞に、友の死がわずか数行で記載されているのを見た。学校では追悼のための全校集会が開かれ、校長が長々と人生訓をたれた。一方このことで、わたしに追及の手が伸びてくることはなかった。警察からも教師からも親からも無視された。だから黙ったままでいた。やがて年月が建ち、いつしか自分は大人となっていた……。

 さらに今――。
 夫との会話が途絶えたのはいつからだろう。娘が言うことを聞かなくなったのはいつからだろう。寂しさからホストに入れあげ、借金するようになったのはいつからだろう。
それらも、何年か後には笑い話になるはずだった。
 はずなのだが……。
「……行くよ」
 顔を上げると、いつのまにかそこにはあの『親友』が立っていた。わたしの手を強く、しっかりと握りしめていた。
 同じだ。あの時と同じだ。そしてわたしだけが助かるのだ。なぜならこれは新たな人生を踏み出すための、儀式にすぎないのだから。
「……うん」
 わたしは大きく深呼吸をしてから、一歩前に踏み出した。
 ――その瞬間、
 一陣の風が吹き抜けた。

「……どうやら飛び降り自殺のようですね」
 気がつくと、闇があった。遠くで人の声がする。
「やり切れませんね……こんなところで。しかも女子高生が、『ふたり』も……」
 その後、いきなり視界が開けた。わたしをのぞき込むように、ふたりの男が立っている。ひとりは若く、もうひとりは中年だった。中年の男の手には、ビニールシートのようなものが握られていた。
「近くにいた浮浪者が、そのビルから落ちてきた瞬間を目撃したそうです」若い男が言った。どうやら現場検証にきた刑事らしい。
「ただ……」なぜか彼はそこで言い淀んだ。
「証言では、最初のひとりが落ちてきて、十分ぐらいしてから、もうひとりが落ちてきたそうなんです。その子は……どうして飛び降りるのをやめなかったんですかね。その間に、いったい何を考えていたんでしょうか?」
 中年の刑事は、ただ首をふるほかない。
 ――あんたたちなんかに、わかってたまるもんですか。
 わたしはそこから空を見上げようとしたが、その先はぼんやりとしていて、自分が落ちたビルの、あの無慈悲な屋上の柵すら捉えることができなかった。
 風もいつしか……静まってしまったようだった。

 

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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【第15回】短編小説の集い』参加予定作品でしたが、締切の日程を勘違いしておりました。

 参考程度にご一読いただけましたら幸いです。

 大変申し訳ございません。

 

novelcluster.hatenablog.jp

ばらばら その5

 3
 
 どこへ? それはまったく考えていませんでした。何より僕はお金も持っていませんでしたし、もう夜中ですから、あらかた大きな店はすでに閉店しています。人気のない場所はさすがに恐ろしく、とりあえず街の中心部の方へ出て、ウロウロと歩き続けました。
 はじめのうちは、昼間とは違うネオンや人の流れなどが、かなり新鮮に感じられもしたのですが、すぐに飽きてしまいましたし、さらに普段の運動不足のためか、夏の熱帯夜のじめじめした空気のためか、ひどい脂汗をかくようにもなりました。そこで僕は冷を取るために、コンビニの中へと避難したのでした。
 やがて、いろいろと漫画雑誌や週刊誌を立ち読みして、あらかた時間をつぶしてから外に出ようとすると、
「あれ、シュウちゃん」
 店の入り口で、駅から帰るところの恵美と、ばったり出会ったのでした。
 
 それから僕と恵美は、一緒に帰ることになりました。彼女の自転車を僕がかわりに押してあげて、そのすぐ横を恵美はついて歩いて……僕らはしばらく、無言のまま夜道を進んでいきました。
「……今日はサークルの日だったの?」
 意外にも、先に口を開いたのは僕の方でした。
「えっ?」
「あ、いや……こんな時間に珍しいな、と思って。大学は夏休みのはずだし……」
「……うん、そう。そうなの。サークルに出ていたの」
「そうなんだ……やっぱり……」
 話す内容もそうでしたが、どうにも気持ちや声がうわずったままで、僕は話し続けていました。しかも、視線はずっと前を向いたままで、どうしても恵美を見ることができませんでした。
「えっと……ごめん、何のサークルに入っていたんだっけ?」
「……あ、テニス。テニスサークル……軟式のだけど」
「へえ……」
 そう言えば確かに以前、テニス部に入ったことを、恵美が話をしていたような記憶がありました。真新しいラケットを見せに来たこともあったはずです。でもそのとき、自転車のカゴの中には、恵美がいつも持っている、小ぶりのショルダーバックが乗せられているだけで、そのテニスラケットは、どこにも見あたりませんでした。
「あれラケットは? 学校にでも置いているの?」
 疑問に思った僕は、すぐにそのことを聞いてみました。
「あ……えと、今日は今度の夏合宿のための会合があってね。話し合いだけだから、ラケットを準備してなくても良かったの。それが……ちょっと長引いただけ」
「合宿……か」
 やっぱり大学生になると、夏休みになっても、そういったイベントごとで忙しくなるんだろうなと、漠然と考えていました。そして僕は、
「で、どこまで行くの?」
 少し話を長引かせようと、さらにいろいろと聞いてみました。
「う、うん。何だか、信州の方なんだ」
「『信州』かあ……」
 と、言ったところで、僕には軽井沢辺りの、漠然としたレジャー施設のイメージしか頭に浮かびませんでした。
「……小さいとこだけど、ちゃんとしたテニスコートはあるし、裏山に展望台があって、そこから見る夜景がとってもきれいなんだって」
「ふうん……いいところみたいだね」
 僕は、心にもないことをつぶやいていました。
「うん、そうだね……」
 恵美も、なんだか元気なく、返してきました。
 
 ……ちょっとお尋ねしますけど、旅行は好きですか? 最後に旅行に出られたのはいつですか? 一人きりじゃなくて……友人と一緒でも、恋人と一緒でも、家族……と一緒でもいいんですが……。
 実は僕は、そんな旅行らしい旅行に出かけた記憶が……あまりなくてですね……。
 母は土日関係なく仕事に出ることが多くて、なかなかまとまった休みをとることも難しかったみたいです。それに……たとえ金や時間に余裕ができても、いつしか母は、僕なんかよりも、そのときどきの恋人との逢瀬を最優先するようになりましたから。僕はいつも置いてけぼりでした。おまけに僕自身も、だんだんと人が集まるようなところを避けるようにもなっていったので……まあ、その理由は、あえて言わなくてもお分かりのことと思います……。
 
 ……そんな僕でも、そんなサークルでの合宿とか、ホテルやペンションでのお泊りなんてのには、少しは憧れみたいなものを抱いていたわけです。きっと楽しいに違いない、当然、そう考えていました。だから、そのときの恵美が、なぜそうじゃないのか、言葉少なで口が重いのかが、まったく理解できませんでした。僕を気づかって、とも違った感じでしたから……。
 
「いつ行くの、合宿」
「十日ぐらい先……になるかな」
「……そう」
「……うん」
「……」
「……」
 と、会話はそこで、とうとう途切れてしまいました……。
 
  恵美の様子がどうにもおかしいことは、コンビニの前で出会ってからすぐにわかりました。暗い表情をして、何やら思いつめた様子なのです。普段と違う恵美の態度に、僕は戸惑っていました。
 
 僕の方から話しかけよう、話し続けようとしたのは、もちろん恵美のことが心配だったからです。話しかけているうちに、何か彼女の悩みの糸口がつかめるかも、と考えたからでした。
 別に焦っていたわけじゃありません。恵美に対して、何かしらの負い目を感じていたから……そういう理由でもありません。自分のため……なんかじゃなくて、あくまで恵美のことを思ってですね……。
 
 と、とにかく……これまではいつも、恵美の方から取り留めのない話題を振ってもらって、僕がそれに応えるという形で会話を成立させていましたから、僕の方から話し掛けるというのは、なかなかうまくいきませんでした。そして僕が次に何を言おうか、迷っていますと、
「……悩んでいるの」
 恵美がポツリとつぶやきました。
「何を?」と、僕が間抜けに聞き直すと、
「……合宿。行こうかどうしようか、迷っているの」と、答えるのでした。
「……?」
 僕は足を止め、そこでやっと恵美の方を向いて、
「どうして?」と、問いかけてみました。
「なんだか……怖くて」
 怖い? 何が? どうして? 恵美も足は止めましたが、下を向いたままです。僕にはなんだかわかりませんでした。
「サークル楽しくないの?」
「ううん。そんなこと、ないよ」
「誰か嫌な先輩がいるとか」
「ううん。そんなこと、ないよ」
「じゃあ……」
 僕が次に何を聞こうかと考えていると、
「ううん……ちょっと面倒くさいな、って思っただけ」
 と、やっと顔を上げて、手を振りながら、ぎこちない笑顔で答えたのです。それはいつもの笑顔とは、まったく違っていました。
「恵美……」
「ごめんなさい……今言ったことは、忘れて」
 ひょっとしたら僕は、無理やりに恵美に問いただすような形になっていたかもしれません。でも、恵美の口から「面倒くさい」なんていう言葉が発せられたことは、僕にとっては、非常に驚きでした。
「……ごめんね」
 また恵美は僕に謝っていました。
「……」
 それに対して僕は、またかける言葉を失っていました。
「……」
「……」
 それからまた二人は歩き出しました、長い沈黙が続きました。
 
「あのさ……」
 僕は次第に、その沈黙に耐えられなくなって、それで、
「……母さんも、金田さんと旅行出かけるみたいでさ……」
 と、先ほど母とやりあったばかりの話題を、つい漏らしてしまいました。
「……旅行?」
 恵美は今度は、すぐにおうむ返しに聞いてきました。
「場所や日取りまでは聞かなかったけどね……母さんの中では、すでに決定事項みたい。『しばらく留守にする』なんて言っていたから、少なくとも一泊ぐらいはしてくるんじゃないかな。避暑がわりにさ」
「……」
「また母さんの悪い病気が出たみたいなんだよ。どうせ、また泣かされるのはわかっているのにさ……僕がそう言ったら、母さんはカンカンに怒っちゃってさ。僕も頭冷やすつもりで、外に出てきたところなんだ……」
 僕は延々と恵美に愚痴をこぼしていました。単なる愚痴ならば、いくらでも言葉を紡げました。
「シュウちゃんは……金田さんのことが嫌いなの?」
「えっ……?」
 恵美が言った言葉は、僕には少々意外に感じられました。僕は必死に頭を働かせましたが、恵美に本心を隠せるようなうまい言葉が見つかりませんでした。
「……うん」
 なのでせめて、弱く小さく同意をしたのでした。
「そう……」
「……金田さんと、二人きりで話す機会が会ってさ」
「えっ……いつ?」
 恵美はなぜか驚いた顔をして、僕の方を見ました。僕はそれがまた、少し気にはなりましたが、かまわずに話を続けました。
「今日の昼間……偶然、街中でばったりとね。喫茶店に入って、コーヒーをごちそうになって……」
 僕はなるべく冷静に昼間のことを話そうと思いました。ですが、
「なんだか……怖くて」
「……」
 と、心情をそのままポツリと、口にしていました。それははからずも、恵美がさきほど不意に漏らした言葉とダブりました。
「母さんは、僕が世間知らずなだけ、人を見る目がないだけだって取り合わないけど、やっぱり怖いよ金田さんは。普段は猫かぶっているっていうか……自分の本心を覆い隠してさ……それに……」
「それに?」
「……なんでも自分の思い通りに物事を進めないと、気がすまないたちみたいだ。なによりあの人は人を見下している。自分が一番偉いと感じている。まわりは自分の言うことを聞いて当然なんだって思ってる……そんな人は……やっぱり怖いよ」
「……」
 なんだか、つい饒舌にもなってしまったように思います。すべて話した後で、急に恥ずかしくなって、僕は下を向いたまま歩きました。
「意外だね……」
 しばらくたってから、恵美が口を開きました。
「そんな風に話すシュウちゃんを、はじめて見た気がする」
「……」
 恵美の言葉に、ますます僕は小さくなってしまいました。
「だけど……たぶん、間違ってなんかいないと思う」
「えっ……?」
「シュウちゃんの言っていることが、当たっている……かもしれないよ」
「そうかな……」
 そんな恵美の言葉こそが、僕にとっては意外な反応でした。
「おばさんに、もう一度話してみたら? 旅行云々はともかくとして、シュウちゃんが感じている疑問や思いを、素直にぶつけてみるの……すぐには聞き入れてもらえないかもしれないけど、根気よく話し続けていれば、わかってくれるんじゃないかな。考え直してくれるきっかけになるかもしれないよ」
「うん……」
 ですが……そうこう話しているうちに、いつのまにか、恵美の家の前までたどり着いてしまっていました。なのでその話題は、僕の方から打ち切ってしまったんです……。
 
「……おじさんやおばさん、まだ帰っていないんだね」
 恵美の家の中は、真っ暗なままでした。人気なく、ひっそりとしています。
「うん……そうみたい」
 恵美は、また暗い表情に戻って答えました。恵美のご両親は、どうやらうちの母よりも、忙しい毎日を送っているんだなと、そのときはそんな間の抜けたことを考えていたのですが……。
「それじゃ……また……おやすみ」
「うん……送ってくれてありがとう……おやすみなさい」
 僕らは結局、玄関のところで別れてしまいました。
 僕が自宅へ戻ってみると、ちゃぶ台の上の食器は片付けられていました。すでに母はもう寝入ってしまったらしく、奥からは襖越しに、かすかないびきも聞こえていました。なので僕も、そのまま自分の部屋に戻って、布団にもぐりこんでしまいました。
 
 ……それからしばらくずっと、わが家で金田さんがらみの話がかわされることはなくなりました。母が話そうとしない限り、僕からその話題をふることは、ヤブ蛇のようにも思えましたので、僕はあえて何も言いませんでした。そして結局、恵美から受けた励ましの言葉は、無駄になってしまったんです。
 互いにかすかなしこりを残して、毎日が過ぎていきました。母の仕事はますます忙しくなり、旅行話は立ち消えにでもなったのだろうと、僕は漠然と思っていて……。
 
 そして突然、その日が……やって来たのです。
 「事件」の起きたその日が……やって来たのです。

ふたりの夜はいつまでも

「さ、冷めないうちにどうぞ」
 僕はマグカップを手に、目の前の彼女に語りかけた。
 しかし彼女は身動きひとつしなかった。冷めてしまったのはその心。今夜0時に世界が終わることを知った時、彼女はひとり去ろうとした。だから僕はその胸に、ナイフを突き立てなければならなかった。
 僕は彼女と肩を寄せ合い、ひとつの毛布にくるまった。その体もすっかり冷たくなっていたけれども、いれたてのココアがそれを補ってくれた。時計の針を眺めつつ、息を潜めその瞬間を待つ。
 
 そして0時――。
 世界は終わらなかった。
 0時3分。
 世界は終わらなかった。
 0時5分、10分、30分。
 
 ……世界はいつになったら終わってくれるのだろう?

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 本作は『Twitter300字ss』企画参加作品です。

あなたへ捧げる豚の餌

「これぞ男の料理だ」と父は言ったものだ。さんまの缶詰をフライパンにあけ、溶き卵と共にざっくり炒める。缶詰のタレで味付けは十分だし、後はご飯と混ぜて喰らうだけ。まさしく「喰らう」という表現がぴったりで、母からは「豚の餌みたい」と大不評であった。
 それを今、この広い広いキッチンで、一人きりで作っている。
「お前の料理は重い」そんな捨て台詞を残してあいつは出て行った。あたしだってなあ、シャレオツな料理ばかりを、すき好んで作ってきたわけじゃねえんだよ。ふざけんな。
 あたしはさらに怒りをたぎらせて、出来上がった「豚の餌」をガツガツと喰らった。何も加えてないはずなのに、なぜだかそれは少ししょっぱかった。

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 本作は『《俺のグルメFESTIVAL》』企画参加作品です。

ばらばら その4

 2
 
 母が帰ってきたのは、その日も遅くなってからだったと思います。
 僕は母がまた、金田さんを家まで連れてくるんじゃないかと冷や冷やしていましたが、母は一人で帰宅しました。僕は昼間に金田さんと二人きりで会ったこと、強引に就職まで周旋されたことについては、何もしゃべりませんでした。
 金田さんの方で、すでに昼間の出来事を母に話してしまっていたかもしれませんが、わが家で母と二人きりのときに、変にそのことを話題に出して、母の本音が──内心僕のことをどのように考えているかなどが──結果的に明らかになることを、僕はひどく恐れていました。さらに、知りたくもないことまで聞かされる羽目になりはしないかと、おびえてもいました。
 でも、その話題はおろか、ろくな会話すらないまま、夕飯時は時間だけがのろのろと進んでいきました。つけっぱなしのテレビの音声が、居間の中で響いていました。そう言えば久しく母とまともな会話をしていないかもしれないと、僕はそんなことも考えていました。
「……あ、そうだ。前もって言っておくけど、近いうちにちょっと旅行に出るからね、泊りがけで」
 と、母が言い出したのは、食事を終えてからすぐでした。
 僕は思わず「えっ?」と、聞き返しました。
「聞こえなかったのかい。旅行だよ旅行……しばらく家を留守にするけど、かまわないだろ」
「誰と行くの?」
 次に僕の口から出たのは、「どこ」ではなく、「誰」という問いかけでした。
「……誰とでもいいじゃないか」
 と、母がとぼけるので、
「あの人と?」
 と、僕は言い返してやりました。
「『あの人』って……ちゃんと『金田さん』ってお言い」
 やはりそうでした。ですが、金田さんの名前がはっきりと出たことで、逆に僕の心の中に、ひどくモヤモヤした気持ちが生まれました。
「やっぱり『あの人』なんだ」
 僕は、わざとその名を出しませんでした。そのため、かなりトゲのある言い方になってしまったと思います。
「なんだい、その言い草は!」
 当然、母もそれに反応しました。母の方も、語気がかなり荒くなっているのが感じられました。
「別に……それこそ、いいだろ……」
 自分で火をつけておきながら、母ににらまれ、すぐに僕はたじろいでしまいました。それを見て、母が一気に攻勢に出ます。
「何か問題があるって言うのかい。あの人は独身だし、あたしも独身。いい年をした大人の独り者どうしが、一緒に旅行に出ちゃいけない道理でもあるのかね」
「別に行くのはかまわないけどさ……」
 僕はその後の句を、言ってもよいものかどうか迷いましたが、
「あの人は、信用できる人なの?」
 と、ついに言ってしまいました。
「なんだって?」
 母が厳しい顔で問い返します。やっぱり僕はひるみましたが、
「僕は……あの人は裏があると思う」
 そう言って、あらためて金田さんのことを考えました。
 冷めた目をした、うわべだけの笑顔。相手の立場が弱いとわかったとたんに、人を見下しはじめるその態度。何度も繰り返される自己中心的な自慢話。自分の主張をごり押しするあつかましさ。とても善人であるようには思えませんでした。母が好きになるべき人のようには思えませんでした。
「裏……ねえ」
 母はそう言って、今度は鼻で笑ったようでした。確かに馬鹿馬鹿しく聞こえたかもしれません。まがりなりにも一家を支え、それこそ「世間の荒波に立ち向かって」生きてきた自分に対し、世間知らずで不器用な、しがない浪人生の息子が、意見しようというのですから。でも、
「母さんは、だまされていると思う」
 言わなければなりませんでした。息子として。そして確信もしていました。金田さんとは関係を持ってはいけないと。きっと母をひどい目にあわせるに違いないと。
 すると母はさすがに我慢できない、と言った感じで、今度は「アハハハハ」と大きな声で笑いだしました。
「母さん!」
 さすがの僕も怒りましたが、母はまったく意に関していないようでした。その場で久しく笑い続け、それがやっとひと段落ついてから、母は話しだしました。
「……あんたが、靖(やすし)さんを嫌うのはわかるよ」
 「靖」というのは、金田さんの下の名前のようでした。
「だけどそれは……しょせん、あんたの思い込みだろ?」
「違うよ。それだけじゃ……」
「まあ、お聞き。あんたがちっぽけな価値観や倫理観でもって、人をはかりにかけるのは自由だよ。人を好き嫌いで区分けしたり、陰で断罪するのも勝手にするが良いさ。だけどね……そんな、根拠のないレッテル張りほど、実は始末に負えないものはないっていうことは、わかっといた方がいいね……今後のあんたの人生のためにもね」
 僕はそのとき、母が何を言おうとしているのか、ほとんど理解できていなかったと思います。
「根拠がないって、なんでわかるのさ」
 ただ僕は、母の言葉に対し、おうむ返しに反抗しただけでした。
「じゃあ、言ってもらおうじゃないか。あの人が悪党だって言う証拠を」
「それは……」
 僕は、昼間の喫茶店での出来事について、話すべきかどうかまだ迷っていました。そしてその一方で、金田さんとのやり取りの中で、どこの部分がおかしくて、何がそんなに問題なのかを、きちんと母が納得できるように、順序だてて説明することなんて、自分には無理なんじゃないかと思いはじめていました。
 金田さんは、自身の仕事の成功を祝い、また僕に対して受験や就職の、果ては今後の人生の身の振り方に関してまで、具体的な提案をし、貴重なアドバイスを与えてくれた……そんな話にすりかえられるのは目に見えています。いささか勝手すぎるきらいはありましたが、それは彼の熱い性格ゆえ、もしくは僕を親身に考えた末の、深い愛情のしるしだったと返されたら(そう言われただけで虫唾が走りますが)、僕にはもう反論することはできません。
「ほら、ごらん。何も言えやしないじゃないか」
 あれこれ考えすぎて、また黙りこくってしまった僕に対し、勝ち誇ったように母が言いました。これと同じような展開が、昼間にもあったような気がします。
「まあ、確かにね、あの人も聖人君子とは言えないと思うよ。でも、性根のまっすぐな、いい人には違いないじゃないか……だいたいね、生きていくためには仕事を続けていくためには、少々の無茶や無理もしないとやっていけないんだ。あの人だって、きっと自覚しているに決まっているよ」
 きっと……きっと、そうなのでしょう。母の言っていることや、金田さんが言っていることの方が……きっと、正論なのでしょう。間違っているのは、身勝手なことを口にしているのは……きっと、僕の方だったんでしょう。
 だけど……だけど……。
「あの人は、人間の、クズだよ」
 ……言ってしまいました。
 さすがに母の顔つきが変わりました。怒りで顔色が変わる瞬間を、はじめて間近で見せられた気がしました。
「あんた……」
「あの人は……母さんを愛してなんかいないよ」
「なっ……」
 どうしてそんなことまでが言えたのか、今でもわかりません。
「自分のために……母さんをただ利用しているだけさ。その価値がなくなったら……また、捨てられるよ」
「おだまり!」
 とうとう母は怒鳴りました。ですが……僕はひるまず、なけなしの勇気を振り絞って話しました。
「母さん……今まで母さんが連れてきた、ロクでもない連中のことを、思い返してごらんよ。金田さんは……そいつらと同じにおいがするんだよ……強引で、口八丁手八丁、人の話も聞きゃしない……母さん、目を覚ましておくれよ。また母さんが悲しむのは、もう見たくないんだよ……」
 例えば――僕が幼いころに母が連れてきた山田という男は、はじめは僕とも良く遊んでくれる「いい人」でしたが、すぐに酒やギャンブルに手を出し、酔って僕らに暴力をふるうようになりました。
 またその数年後に付きあいはじめた川口という男は、まじめで堅実な「いい人」そうな外見とは裏腹に、実は多額の借金を抱えており、ひそかにこの家と土地の権利書を盗んで、金に変えようとしていました。
 きっと母には……心の中に、どこか大きな隙があったのかもしれません。本人はそのことを自覚してはいなかったようですが、ついつい相手の男に、そこをつけこまれてしまうのでしょう。そしてその隙間は、何度同じ失敗を繰り返しても、なぜか決して埋まることがなかったのかもしれません……。
「おだまりったら!」
 母はまた僕を怒鳴りつけました。
「……まったく、聞いちゃいられないね。あたしが決めたことに、ぐずぐず口出すんじゃないよ!」
 そう言い放つと、母は立ち上がり、さっさと隣の部屋に行ってしまいました。隣は母が寝室として使っていた八畳ほどの日本間で、ここの居間との間は襖で仕切られています。さらに母は最後に、後ろ手でその襖を、力いっぱい閉めてしまったのでした。
 ちゃぶ台の上の汚れた食器とともに、僕はその場に、取り残されてしまったのでした……。
 
 ……そのとき。
 僕が、母を説得できていたなら……。
 僕が、金田さんが「悪党」である証拠を、きちんとつきつけることができていたなら……。
 僕が、母と金田さんとを、早くに別れさせていたなら……。
 
 でも実際の僕は、何も言えずどうすることもできず、さらにはどうにも腹に据えかねて、テレビを消し、「ちょっと外へ出てくる」と奥に声だけかけて、また逃げ出してしまったのでした……。