おーばーらいと
「君のお姉さんを裏切るなんてできないよ」と、義理の兄は言った。
初めての告白はあえなく玉砕した。その場に二人でいることに耐えられなくなって、私は家を飛び出した。
「よっ、どうしたの暗い顔してさ」とぼとぼ歩いていると、クラス一のチャラ男に出くわした。「どこか遊びに行かない? ぱーっと騒ごうよ」
私は彼に付き合うことにした。
そのまま初めての朝帰りとなった。玄関に入ると、兄が立っていた。
「どこに行っていたの? 心配していたんだよ」ぎこちなく声をかけてくるその人の冴えない風体が、私の想いに上書きされた。
……どうしてこんな中年男を好きになったのだろう。
私は目礼だけ返して自室へ向かった。早く横になりたかったのだ。
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本作は『Twitter300字ss』企画参加作品です。
ばらばら その6
第三章
1
その日は土曜日でした。
母は休日にもかかわらず、朝早くから仕事に出かけていました。
すでにお話しましたが、休日出勤や急な呼び出しは、珍しいことではありませんでした。しかもそんな日は、たいていは帰りも遅くなるのが普通でしたから、僕は母を送り出した後は、どこにも出かけず、そのまま家に残ってゴロゴロしていました。
以前街で金田さんと出くわしてからは、どうにも外へ出るのが、人の多い場所を歩くのが、億劫にもなっていたんです。出かけるのは、夏休みシーズンが終わってから、涼しくなってからにしよう……だなんて、勝手なことを考えたりもしていました。
ところが、夕方近くになって、いきなり母が帰ってきたんです。
ちょうどまたうつらうつらしながら、居間で横になってテレビを見ていたときだったので、僕は大いに慌てました。ですが母は、そんな僕の姿など眼中にないかのように、バタバタと急ぎ足で奥の部屋へと入って行きました。そして旅行用のキャリーバックを引っ張り出すと、衣装ダンスのなかからあれこれ服を物色し、詰め込みはじめました。
僕はあっけにとられていましたが、さすがにすぐに、後ろから声をかけました。
「ど、どうしたの、母さん。こんな時間に」
「前に言っていたろ。今から泊まりがけで出かけてくるから。明日の夜まで帰らないよ」
母はこちらを見ずに、作業をしながら答えます。
「えっ、今から? どこに?」
と、僕は当然の疑問をぶつけました。すると母は、
「……信州」
とだけ、小さく早口で答えました。
「信州って……それだけじゃわからないよ。仕事は?」
僕は「信州」という言葉に、なぜか聞き覚えを感じながらも、質問を続けました。
「仕事は済んだよ。ノルマもきっちり達成したから、これからはプライベートさ。温泉にでも入って、浮世のうさを晴らしに行くんだよ……こんな毎日じゃ、ほんとやってらんないからね」
「金田さんも……一緒なの?」
そう言うと、やっとそこで母の手が止まりました。
「あの人はもう先に行っているんだ。朝から向かって、もう現地に着いているころじゃないかね。だからあたしも、そこに行くんだよ。特急に間に合えば、今日中に着けるからね」
「……」
「本来なら、あたしも一緒の予定だったんだ。だけど仕事がずれ込んじまって、あたしの分の予約は、キャンセルせざるを得なくなっちまった。半ばあきらめていたんだけど、面倒ごとが案外早く片付いたからね。すぐにでも出かけることにしたんだよ」
母は一気にそう言うと、また作業に戻りました。
旅行計画は、実は裏で着々と話が進められていたようです。僕はそのことにも驚きましたが、母がかなり無理をしてまで会いに行こうとするほど、そこまで金田さんに惚れこんでいることも意外でした。
普段は冷静な人物ほど、こと恋愛ともなると、われを忘れてのめり込み、まわりがまったく見えなくなる傾向があるといわれていますけれども、母の場合は、まさしくその典型であったのかもしれません。作業を進める母の後姿に、僕はまた何も言えなくなってしまって、のろのろと居間へ戻りました。また横になって、テレビを見ることだけに集中しようとしました。
しばらくして、着飾った母が姿を見せました。明るい色した花がらのワンピースに、つばの大きな白い帽子。手にはブランド物のハンドバッグをかけ、さらに先ほどの真っ赤なキャリーバックを引きずっていました。精一杯若ぶった、リゾート風味の出で立ちです……なんだか僕は少し悲しくなり、それと同時にやるせなくもなりました。
そしてそのときもなお、母の恋愛に関して、金田さんとの付き合いに関して、僕はまだまだ否定的な立場を崩していませんでした。どうせ今度も泣きをみる、心の奥底でそう思っていました。
「じゃあ行くから。戸締まりと火の始末はちゃんとしておくれ。帰りは明日の……まあ、遅くになると思うから。何かあったら携帯に電話するんだよ」
母は財布から一万円札を出して、ちゃぶ台の上に置きました。
「食事は適当に買って食べておくんだね。あとそれと」
と、ここではじめて母は、僕を正面から見据えて、
「……言っとくの忘れていたけど、明日の日曜に、あんたの予備校で統一模試があるらしいじゃないか。それを受けといで。いいね」
そう言って、ハンドバッグのなかから取り出した封筒を、僕に向かって投げつけました。慌てて拾って中を開いてみると、受験料支払いの領収書と受験票が入っていました。確かに試験日は明日になっています。
「……何だよ、これ?」
「あたしがこないだ申し込んでおいたんだよ。今のあんたの出来栄えを知りたくてね」
母は僕がまったく予備校に行っていないことや、毎日あちこちでサボっていることを、すでに気づいているようでした。それは後の言葉からでもわかります。
「あたしが、何も知らないと思っているならおめでたいね。帰ったら試験の出来と、あんたの今後の身の振り方について、じっくりと話すつもりだから、そのつもりでいなよ」
「えっ……」
「テレビなんか見ている暇があったら、さっさと机に向かうことだね……一晩あれば、ある程度は頭に詰め込めるだろ。前にも言ったかもしれないけど、浪人させてやれるのは、今年までだからね。わかったね」
そう言い残して、母はさっさと出ていきました。
「……」
僕は呆然と、その後姿を見送るだけでした……。
「……何を勝手なこと言ってんだよ!」
そう怒鳴り散らしたのは、母が完全にいなくなって、だいぶたってからです。僕はその場に受験票をたたきつけ、自分のことを棚に上げて、母の仕打ちに憤っていました。「何を勝手な」「自分だけ好きなことを」……口にまで出したかどうか覚えていませんが、かなりの悪態をついていたと思います。
ええ、ええ……確かに母の言い分ももっともです。ですが、これが以前、僕が金田さんの悪口を言ったこと(「クズ」呼ばわりしてしまったこと)に対する、母の仕返しということであるならば、どうにも理不尽さを感じざるをえませんでした。
しかし、久しくその場で暴れもしましたけれども、冷静になってくると、現実を思い知らされるわけです。結局は自業自得であることを自覚するわけです。すぐにでも試験勉強をはじめないといけないとあせってくるわけです。なにしろ試験日は明日なのですからね。自室に戻って、埃のかぶった参考書をひっくり返しましたよ……。
でもまあ……できることと言えば暗記、これも母の言うとおり、ひたすら頭に詰め込むことぐらいだったわけなのですが。あんだけ必死に勉強したのは、そのときが最初で最後だったんじゃないですかね。
試験ですか? まあ付け焼刃の、一夜漬けの結果なんて、想像がつくと思います。さんざんでしたよ。せめて一か月、いや、一・二週間でもいい、もう少し事前に知らせておいてくれたら……なんて、ずっと考えていましたね。
まあ受けている最中から、どうやらこの試験の出来なんて、相当ひどいものになりそうだな……って、わかってくるじゃないですか。そしたら、別の強迫観念が頭を占めはじめるんです。「やっぱり自分は駄目なんだ」「自分の頭の出来はこんなもんなんだ」ってね……おかしいでしょ?
そりゃ、何度もいいますけど、努力していないんだから、勉強していないんだから、できなくて当たり前、ですよね……でも、なんて言うか自分が、運にまで見放されてしまったイメージでしたね。心を深くえぐられたような気にもなって、ひどく落ち込みました。当然この結果に、母が満足するわけはないですからね。そうなると、自分は今後どうなってしまうのか……ずっと、その暗い考えにとりつかれていましたよ。
……ところがおかしなことに、実際の試験結果については、とうとうわからずじまいなんです。いまだにね。
そりゃ、調べようと思えば、調べられると思いますよ。結果も郵送されてきたと思うんですが、いろいろあってどこかに行ってしまって、わからなくなってしまいました。
あんだけ苦労したんですけどね……あんだけ悩んだんですけどね……。
今となっては、思い出したくもないですよ。もう、どうでもいいです。あなたの方で、調べてみますか? そりゃ、かまいませんけど、そちらが期待するような結果は、返ってはこないと思いますよ……。
話を戻すと、試験が終わってから、僕は足取りも重く、しばらく街をさまよいました。どこをどう歩いたか、どこに立ち寄ったか、まったく覚えていません。もう大学進学はあきらめて、どこかに就職しなければならないのかって……働くと言っても、こんな自分に何ができるのか、見当もつきませんでしたし……いっそのこと、以前金田さんに頭を下げて、例のワンマン社長の会社に、あらためて紹介してもらうことにしようか……そんなことまで考えていました。
自宅に戻ったのは、かなり深夜近くになっていたと思います。家の中に明かりがついていました。「遅くなる」と言っていた母が、もう帰ってまだ起きている証拠です。母が寝てしまっていることを期待していたのですが……僕はうなだれながら玄関のドアを開いて、小さく「ただいま」と言って中に入りました。そしてせまい廊下を進んで、母がいるであろう居間の方をのぞいて見ると……。
母は部屋の隅に、あぐらをかいて座っていました。
ちゃぶ台の縁に肘をついて、体をもたれかからせていました。
そして、すぐそばには一升瓶が何本か、雑然と並べられていたのです。
……僕は酒がまったく飲めないんですけれども、母はかなり強い方で、時折、晩酌代わりに燗をつけることもありました。ですが、そのときは、燗ではなく瓶のまま、しかもそれらのほとんどが、すでに中身が無くなっている状態だったんです。目の前の湯のみ茶碗にも、なみなみと酒がつがれて、今にもあふれそうでした。
顔だけでなく、手足の先に至るまで赤黒くなっていて、明らかに深酔いしているのがわかります。服装は出かけたときのままでしたが、ところどころはだけて、どうにもくたびれきった感じに豹変していました。さらに全身から酔っ払い独特の、すえたにおいも発していましたね……。
母は僕が部屋に入ってきても視線を上げることなく、湯のみの方をじっと凝視していました。
「……か、帰っていたんだ。結構早かったんだね……」
僕はとりあえず声をかけましたが、母は全く無視していました。そして目の前の湯のみに手を伸ばすと、それに口をつけ、そのまま一気に飲み干しました。
「……げぇぷ」
母は低い大きなげっぷをしてから、すぐ側にあった中身が残っている一升瓶を引き寄せ、また湯のみに酒を注ぎ始めました。飲むときもつぐときも、かなりの酒がこぼれて、ちゃぶ台や母の服を汚していましたが、母はまったく気にしていませんでした。
「……」
さすがに何かあったのかと思いました。僕は母の対面にまわって座りました。
「どうしたの、母さん……」
「……」
母は答えませんでした。つぎ終えた一升瓶を、また傍らに置きました。
「母さん……黙っていちゃわからないよ。どうかしたの」
やっぱり母は答えませんでした。震える手で湯のみをつかみます。
「……ひょっとして、金田さんと何かあったの」
「!」
と、ここではじめて、母に反応がありました。両の眉毛がピクンと上に上がったかと思うと、それから視線とともにゆっくりと下がっていきました。
「母さん……!」
「うるさいね……何度も呼びかけなくてもわかっているよ」
とうとう母は観念して、口を開きました。
「でも……」
「いいんだよ。放っておきな」
と、取り付く暇なく、また茶碗の酒を飲み干しました。
「そうはいかないよ」
僕はここぞとばかり、母に詰め寄りました。
「何かあったのかい。心配じゃないか」
「……げぇぷ」
母はまた大きなげっぷをしただけで、後はだんまりを決め込みました。手だけを動かして、傍らの一升瓶を手繰り寄せようとしました。
「旅行先で何かあったの? 金田さんとけんかでもしたの?」
「……」
母の手は、目当ての一升瓶から少しはなれたところで、ひらひらとさ迷い続けています。僕はだんだんと、イライラとしてきました。
「母さん!」
「うるさいねえ、いいかげんにおし!」
とうとう母は怒鳴りましたが、僕は怯みませんでした。
「やっぱり金田さんと、『何か』あったんだね」
「……」
「そうなんだね……?」
「……ああ」
ついに母は同意しました。さ迷っていた手が、ぱたりとちゃぶ台の上に落ちました。
「……やっぱり金田さんは……あの人は母さんとは合わなかったんだよ」
しばらくした後、僕は母に向かって、なるべく穏やかなトーンで話しかけました。
「……」
「僕はこのあいだから、『あの人には裏がある』って言っていたじゃない……今度のことで、母さんもあの人の本性がわかったんじゃないの? 早い段階でそれがわかって、むしろよかったのかもしれないよ」
僕はひどく饒舌になりました。前日の、旅行に出かける前の母の言動が、まだひっかかっていましたし、この日の試験の出来のこともあって、自分がいわゆる「世間知らず」で、人を見る目が無い「駄目なやつ」だ、という印象だけでも、なんとか払拭したかったのかもしれません。だんだんと強気に出るようにもなって、いささか母を見下すような気分にもなりました……まさに「鬼の首をとった」ようだとは、そのときの僕のことをいうんでしょう。
「とにかく、今日はもう休もうよ。明日も仕事でしょ。やけ酒なんてもう止めなよ。僕も今日は疲れているし、布団もひいてあげるから……」
と、僕が立ち上がろうとした瞬間、
「お待ち!」
母が置かれたままになっていた手を急に伸ばしてきて、僕の手首をつかみました。ものすごい握力でした。
「な、なんだよ。いったい……」
「いいから……いいから、そのまま……そこにお座り」
「……」
何がなんだかわからず、僕は浮かした腰をまたおろしました。ですが、僕から手を離し、僕が座り直しても、母はなかなか口を開こうとはしませんでした。
「……母さん?」
「……」
僕が、その重い沈黙に耐えきれなくなりかけとき、
「気分いいだろうねえ……」
と、母は絞り出すような低い声で話し出しました。
「……えっ?」
「あの人とのことさ。あんたの見立てた通りだったってえことだろ」
「……」
「さぞかしいい気分だろうねえ。自分の母親が馬鹿みたいに見えるだろ……」
「そんなこと……」
「思っているんだろ! そうなんだろ!」
母は、きっと顔を上げて言いました。その目は充血して真っ赤でした。泣いていたのでしょうか。酒のせいなのでしょうか。
「馬鹿な女が、口先だけの男にだまされた……世間じゃよくある話だあね……」
「だまされたって……何が、あったの?」
「女の方は心底惚れ抜いていたっていうのに……いいようにだまくらかされてさ……それでも女の方が馬鹿だっていうのかね」
「母さん……」
母は、僕の問いかけが耳に入っているのかいないのか、ただひたすらにしゃべり続けていました。
「……女手ひとつで、ボンクラ息子を、ここまで育ててきたって言うのに……女手ひとつで、世間の荒波を、丁々発止で渡り歩いてきたっていうのにさ……そんな女は、期待すら抱いちゃいけないっていうのかね」
「……」
母の手が、また一升瓶を求めて、さ迷い始めました。
「……こちとら大変なんだよ。下げたくもない頭を下げて、言いたくもないおべんちゃらを使って、笑顔を張り付かせてさ……やってらんないよ、まったく。優しい言葉をかけてくれる男でも見つけとかないと、やってらんないよ……」
母は、やっと傍らの一升瓶を引き寄せると、また湯のみに酒を注ぎました。
「でも、それが間違いだったのかねえ。それともただ、男を見る目がないのかねえ……」
そしてまた、一気にそれを飲み干したのでした。
「……」
ただ、今度は、げっぷは出しませんでした。
「あたしは高望みはしていなかったよ。見た目はへちゃむくれでもいい、身なりもだらしなくていい、金もなくてもいい……ただ、誠実でありゃいい。そう思っていたんだ」
「母さん、ねえ母さん……?」
何かがおかしい。その疑惑が、僕の中で徐々に確信へと変わっていきます。背筋に何か冷たいものが走りました。
「清廉潔白とまではいかなくてもねえ。うそさえつかなきゃ……そう、うそはだめだね……」
ふと、母の背後にある襖──つまり、今、僕の後ろにあるこの襖ですね──それがなぜか閉じられていることが、僕は気になりました。
その奥には、母が寝泊りしている日本間があることは、すでにご説明したとおりです。確かそこは、母が旅行に出る前、服を着替えて荷物もって出てきた際に、開かれたままになっていたはずでした。僕は試験のことで頭がいっぱいで、他の部屋はそのままにして、出かけてしまいましたから……でも、それがそのとき、何かを「隠す」かのように、ビシャリと閉められていて……。
「そうだよ……あたしはそれほど心が狭い女じゃないよ。だから少々の融通はつけてきたつもりだよ……だけど……」
僕はその奥の部屋から、黒いオーラのようなものがにじみだしているのを感じました。何かがある。この襖の向こうには、何か「不吉な」ものがある……と。
「うそはだめだよ……人間、正直じゃなくっちゃね……うそはいけないよねえ……うそをついたりするもんだから……だからあたしは……」
僕はそっと立ち上がりました。母はなにやらブツブツつぶやいているだけで、今度は僕を引き止めたりしませんでした。
僕はおそるおそる足を進めて行って、母の背後で閉じられた襖を、思い切って一気に開いてみました……!
すると……。
僕は見ました。
部屋の中央に金田さんがいました。
血だまりのなかに倒れていました。
仰向けになって横たわっていました。
……近くに寄ってみなくても、金田さんが、すでに死んでいることだけはわかりました。
母が……。
母が……金田さんを、殺してしまったようなのです……。
親友との絆を確かめ合った時の話
まさかこのビルが残っているなんて。
何十年ぶりに訪れた故郷は、すっかり様変わりしていた。隔世の感というよりも、見知らぬ異国に紛れ込んだような錯覚すら覚えた。
しかしこの建物だけは昔のままだった。
残っているだけならまだしも、中に入ることもできたし、(息は切れたが)屋上に出ることもできたし、柵も乗り越えてこうして屋上の縁にまで立つことだってできた。
あの時と、同じように。
所詮は思春期の流行り病に過ぎなかったのかもしれない。
あの頃のわたしは学業に悩み、恋に悩み、人間関係に悩んでいた。何の希望も持てないでいた。大人に相談するなどもってのほかで、携帯もネットもない時代では、『親友』と呼ぶたったひとりの同級生との会話の中に、不満のはけ口を求めるしかなかった。
「もう……死んじゃおっか」
それはどちらの口からもれたのかは定かではない。だが、どちらが言ってもおかしくはなかったし、その言霊の魅力は格別であった。不幸な現状から脱却し、美しく転生する自分たちの姿を妄想した。
そしてついに、
ふたりしてここから飛び降りることに決めたのだった。
ビルから見下ろす景色も、何ひとつ変わってはいない。
すでに夕闇が訪れかけている時刻である。さらにビルとビルとの間はひどく密接しているため、大きな暗い影に辺りは覆われていた。そこから落ちれば永遠に、下までたどり着けないようにも思われた。
なぜ自分たちは、こんなところを最後の場所と決めたのだろう。別にどこでもよかったはずだ。なのにわたしたちはこのビルを選んだ。ここには人を引き寄せる何かがある。世間知らずの女子高生だけでなく、生活に疲れた中年の主婦が、わざわざ訪れようと考えるほどの何かが。
「…………」
風が吹いていた。ビルの谷間を這いあがってくる冷たい風。あの時も、同じような風がなびいた。そして……。
「じゃあ……行くよ」
もはや顔すら覚えていない友は言った。眼下に広がる深淵の深さにおののきながらも、あくまで初志を貫徹しようと意地にもなっているようだった。
「……うん」
そして自分もそれに負けまいと虚勢をはった。わたしたちは互いに手をつなぎ、大きく深呼吸をしてから、一歩前に踏み出した。
――その瞬間、
一陣の風が吹き抜けた。
(……えっ)
と同時に、いきなり何かに後ろから引っ張られて、わたしはその場に尻餅をついた。
(……なに? なんなの)
振り返ると、長いスカートの端が屋上の柵に引っかかっていた。先ほどの風でまくれ上がった拍子に絡まってしまったらしい。
わたしは急いでそれをフェンスからはがし、スカートの破れ具合を確認して、身なりを整えた。そこまでした後になって、わたしはことの重大さに気がついた。
「…………」
その場に残っているのは、わたしだけだった。友はもう闇の世界へ堕ちてしまったことだろう。彼女をひとりで行かせるわけにはいかない。そういう約束だったし、それが友情というものではないか。
しかし体はその意思に反して、後ろの柵を乗り越えていた。鞄を拾い、靴を履き直し、手書きの遺書もポケットにしまった。そしてすぐさま駆けだして、階段で一階まで降りて行った。一目散に自宅へと戻り、そのまま布団の中へと潜り込んだのだった。
翌日の新聞に、友の死がわずか数行で記載されているのを見た。学校では追悼のための全校集会が開かれ、校長が長々と人生訓をたれた。一方このことで、わたしに追及の手が伸びてくることはなかった。警察からも教師からも親からも無視された。だから黙ったままでいた。やがて年月が建ち、いつしか自分は大人となっていた……。
さらに今――。
夫との会話が途絶えたのはいつからだろう。娘が言うことを聞かなくなったのはいつからだろう。寂しさからホストに入れあげ、借金するようになったのはいつからだろう。
それらも、何年か後には笑い話になるはずだった。
はずなのだが……。
「……行くよ」
顔を上げると、いつのまにかそこにはあの『親友』が立っていた。わたしの手を強く、しっかりと握りしめていた。
同じだ。あの時と同じだ。そしてわたしだけが助かるのだ。なぜならこれは新たな人生を踏み出すための、儀式にすぎないのだから。
「……うん」
わたしは大きく深呼吸をしてから、一歩前に踏み出した。
――その瞬間、
一陣の風が吹き抜けた。
「……どうやら飛び降り自殺のようですね」
気がつくと、闇があった。遠くで人の声がする。
「やり切れませんね……こんなところで。しかも女子高生が、『ふたり』も……」
その後、いきなり視界が開けた。わたしをのぞき込むように、ふたりの男が立っている。ひとりは若く、もうひとりは中年だった。中年の男の手には、ビニールシートのようなものが握られていた。
「近くにいた浮浪者が、そのビルから落ちてきた瞬間を目撃したそうです」若い男が言った。どうやら現場検証にきた刑事らしい。
「ただ……」なぜか彼はそこで言い淀んだ。
「証言では、最初のひとりが落ちてきて、十分ぐらいしてから、もうひとりが落ちてきたそうなんです。その子は……どうして飛び降りるのをやめなかったんですかね。その間に、いったい何を考えていたんでしょうか?」
中年の刑事は、ただ首をふるほかない。
――あんたたちなんかに、わかってたまるもんですか。
わたしはそこから空を見上げようとしたが、その先はぼんやりとしていて、自分が落ちたビルの、あの無慈悲な屋上の柵すら捉えることができなかった。
風もいつしか……静まってしまったようだった。
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本作は「のべらっくす」さま主催、『【第15回】短編小説の集い』参加予定作品でしたが、締切の日程を勘違いしておりました。
参考程度にご一読いただけましたら幸いです。
大変申し訳ございません。
ばらばら その5
ふたりの夜はいつまでも
「さ、冷めないうちにどうぞ」
僕はマグカップを手に、目の前の彼女に語りかけた。
しかし彼女は身動きひとつしなかった。冷めてしまったのはその心。今夜0時に世界が終わることを知った時、彼女はひとり去ろうとした。だから僕はその胸に、ナイフを突き立てなければならなかった。
僕は彼女と肩を寄せ合い、ひとつの毛布にくるまった。その体もすっかり冷たくなっていたけれども、いれたてのココアがそれを補ってくれた。時計の針を眺めつつ、息を潜めその瞬間を待つ。
そして0時――。
世界は終わらなかった。
0時3分。
世界は終わらなかった。
0時5分、10分、30分。
……世界はいつになったら終わってくれるのだろう?
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本作は『Twitter300字ss』企画参加作品です。
あなたへ捧げる豚の餌
「これぞ男の料理だ」と父は言ったものだ。さんまの缶詰をフライパンにあけ、溶き卵と共にざっくり炒める。缶詰のタレで味付けは十分だし、後はご飯と混ぜて喰らうだけ。まさしく「喰らう」という表現がぴったりで、母からは「豚の餌みたい」と大不評であった。
それを今、この広い広いキッチンで、一人きりで作っている。
「お前の料理は重い」そんな捨て台詞を残してあいつは出て行った。あたしだってなあ、シャレオツな料理ばかりを、すき好んで作ってきたわけじゃねえんだよ。ふざけんな。
あたしはさらに怒りをたぎらせて、出来上がった「豚の餌」をガツガツと喰らった。何も加えてないはずなのに、なぜだかそれは少ししょっぱかった。
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本作は『《俺のグルメFESTIVAL》』企画参加作品です。