ばらばら その4

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 母が帰ってきたのは、その日も遅くなってからだったと思います。
 僕は母がまた、金田さんを家まで連れてくるんじゃないかと冷や冷やしていましたが、母は一人で帰宅しました。僕は昼間に金田さんと二人きりで会ったこと、強引に就職まで周旋されたことについては、何もしゃべりませんでした。
 金田さんの方で、すでに昼間の出来事を母に話してしまっていたかもしれませんが、わが家で母と二人きりのときに、変にそのことを話題に出して、母の本音が──内心僕のことをどのように考えているかなどが──結果的に明らかになることを、僕はひどく恐れていました。さらに、知りたくもないことまで聞かされる羽目になりはしないかと、おびえてもいました。
 でも、その話題はおろか、ろくな会話すらないまま、夕飯時は時間だけがのろのろと進んでいきました。つけっぱなしのテレビの音声が、居間の中で響いていました。そう言えば久しく母とまともな会話をしていないかもしれないと、僕はそんなことも考えていました。
「……あ、そうだ。前もって言っておくけど、近いうちにちょっと旅行に出るからね、泊りがけで」
 と、母が言い出したのは、食事を終えてからすぐでした。
 僕は思わず「えっ?」と、聞き返しました。
「聞こえなかったのかい。旅行だよ旅行……しばらく家を留守にするけど、かまわないだろ」
「誰と行くの?」
 次に僕の口から出たのは、「どこ」ではなく、「誰」という問いかけでした。
「……誰とでもいいじゃないか」
 と、母がとぼけるので、
「あの人と?」
 と、僕は言い返してやりました。
「『あの人』って……ちゃんと『金田さん』ってお言い」
 やはりそうでした。ですが、金田さんの名前がはっきりと出たことで、逆に僕の心の中に、ひどくモヤモヤした気持ちが生まれました。
「やっぱり『あの人』なんだ」
 僕は、わざとその名を出しませんでした。そのため、かなりトゲのある言い方になってしまったと思います。
「なんだい、その言い草は!」
 当然、母もそれに反応しました。母の方も、語気がかなり荒くなっているのが感じられました。
「別に……それこそ、いいだろ……」
 自分で火をつけておきながら、母ににらまれ、すぐに僕はたじろいでしまいました。それを見て、母が一気に攻勢に出ます。
「何か問題があるって言うのかい。あの人は独身だし、あたしも独身。いい年をした大人の独り者どうしが、一緒に旅行に出ちゃいけない道理でもあるのかね」
「別に行くのはかまわないけどさ……」
 僕はその後の句を、言ってもよいものかどうか迷いましたが、
「あの人は、信用できる人なの?」
 と、ついに言ってしまいました。
「なんだって?」
 母が厳しい顔で問い返します。やっぱり僕はひるみましたが、
「僕は……あの人は裏があると思う」
 そう言って、あらためて金田さんのことを考えました。
 冷めた目をした、うわべだけの笑顔。相手の立場が弱いとわかったとたんに、人を見下しはじめるその態度。何度も繰り返される自己中心的な自慢話。自分の主張をごり押しするあつかましさ。とても善人であるようには思えませんでした。母が好きになるべき人のようには思えませんでした。
「裏……ねえ」
 母はそう言って、今度は鼻で笑ったようでした。確かに馬鹿馬鹿しく聞こえたかもしれません。まがりなりにも一家を支え、それこそ「世間の荒波に立ち向かって」生きてきた自分に対し、世間知らずで不器用な、しがない浪人生の息子が、意見しようというのですから。でも、
「母さんは、だまされていると思う」
 言わなければなりませんでした。息子として。そして確信もしていました。金田さんとは関係を持ってはいけないと。きっと母をひどい目にあわせるに違いないと。
 すると母はさすがに我慢できない、と言った感じで、今度は「アハハハハ」と大きな声で笑いだしました。
「母さん!」
 さすがの僕も怒りましたが、母はまったく意に関していないようでした。その場で久しく笑い続け、それがやっとひと段落ついてから、母は話しだしました。
「……あんたが、靖(やすし)さんを嫌うのはわかるよ」
 「靖」というのは、金田さんの下の名前のようでした。
「だけどそれは……しょせん、あんたの思い込みだろ?」
「違うよ。それだけじゃ……」
「まあ、お聞き。あんたがちっぽけな価値観や倫理観でもって、人をはかりにかけるのは自由だよ。人を好き嫌いで区分けしたり、陰で断罪するのも勝手にするが良いさ。だけどね……そんな、根拠のないレッテル張りほど、実は始末に負えないものはないっていうことは、わかっといた方がいいね……今後のあんたの人生のためにもね」
 僕はそのとき、母が何を言おうとしているのか、ほとんど理解できていなかったと思います。
「根拠がないって、なんでわかるのさ」
 ただ僕は、母の言葉に対し、おうむ返しに反抗しただけでした。
「じゃあ、言ってもらおうじゃないか。あの人が悪党だって言う証拠を」
「それは……」
 僕は、昼間の喫茶店での出来事について、話すべきかどうかまだ迷っていました。そしてその一方で、金田さんとのやり取りの中で、どこの部分がおかしくて、何がそんなに問題なのかを、きちんと母が納得できるように、順序だてて説明することなんて、自分には無理なんじゃないかと思いはじめていました。
 金田さんは、自身の仕事の成功を祝い、また僕に対して受験や就職の、果ては今後の人生の身の振り方に関してまで、具体的な提案をし、貴重なアドバイスを与えてくれた……そんな話にすりかえられるのは目に見えています。いささか勝手すぎるきらいはありましたが、それは彼の熱い性格ゆえ、もしくは僕を親身に考えた末の、深い愛情のしるしだったと返されたら(そう言われただけで虫唾が走りますが)、僕にはもう反論することはできません。
「ほら、ごらん。何も言えやしないじゃないか」
 あれこれ考えすぎて、また黙りこくってしまった僕に対し、勝ち誇ったように母が言いました。これと同じような展開が、昼間にもあったような気がします。
「まあ、確かにね、あの人も聖人君子とは言えないと思うよ。でも、性根のまっすぐな、いい人には違いないじゃないか……だいたいね、生きていくためには仕事を続けていくためには、少々の無茶や無理もしないとやっていけないんだ。あの人だって、きっと自覚しているに決まっているよ」
 きっと……きっと、そうなのでしょう。母の言っていることや、金田さんが言っていることの方が……きっと、正論なのでしょう。間違っているのは、身勝手なことを口にしているのは……きっと、僕の方だったんでしょう。
 だけど……だけど……。
「あの人は、人間の、クズだよ」
 ……言ってしまいました。
 さすがに母の顔つきが変わりました。怒りで顔色が変わる瞬間を、はじめて間近で見せられた気がしました。
「あんた……」
「あの人は……母さんを愛してなんかいないよ」
「なっ……」
 どうしてそんなことまでが言えたのか、今でもわかりません。
「自分のために……母さんをただ利用しているだけさ。その価値がなくなったら……また、捨てられるよ」
「おだまり!」
 とうとう母は怒鳴りました。ですが……僕はひるまず、なけなしの勇気を振り絞って話しました。
「母さん……今まで母さんが連れてきた、ロクでもない連中のことを、思い返してごらんよ。金田さんは……そいつらと同じにおいがするんだよ……強引で、口八丁手八丁、人の話も聞きゃしない……母さん、目を覚ましておくれよ。また母さんが悲しむのは、もう見たくないんだよ……」
 例えば――僕が幼いころに母が連れてきた山田という男は、はじめは僕とも良く遊んでくれる「いい人」でしたが、すぐに酒やギャンブルに手を出し、酔って僕らに暴力をふるうようになりました。
 またその数年後に付きあいはじめた川口という男は、まじめで堅実な「いい人」そうな外見とは裏腹に、実は多額の借金を抱えており、ひそかにこの家と土地の権利書を盗んで、金に変えようとしていました。
 きっと母には……心の中に、どこか大きな隙があったのかもしれません。本人はそのことを自覚してはいなかったようですが、ついつい相手の男に、そこをつけこまれてしまうのでしょう。そしてその隙間は、何度同じ失敗を繰り返しても、なぜか決して埋まることがなかったのかもしれません……。
「おだまりったら!」
 母はまた僕を怒鳴りつけました。
「……まったく、聞いちゃいられないね。あたしが決めたことに、ぐずぐず口出すんじゃないよ!」
 そう言い放つと、母は立ち上がり、さっさと隣の部屋に行ってしまいました。隣は母が寝室として使っていた八畳ほどの日本間で、ここの居間との間は襖で仕切られています。さらに母は最後に、後ろ手でその襖を、力いっぱい閉めてしまったのでした。
 ちゃぶ台の上の汚れた食器とともに、僕はその場に、取り残されてしまったのでした……。
 
 ……そのとき。
 僕が、母を説得できていたなら……。
 僕が、金田さんが「悪党」である証拠を、きちんとつきつけることができていたなら……。
 僕が、母と金田さんとを、早くに別れさせていたなら……。
 
 でも実際の僕は、何も言えずどうすることもできず、さらにはどうにも腹に据えかねて、テレビを消し、「ちょっと外へ出てくる」と奥に声だけかけて、また逃げ出してしまったのでした……。