花火

ひゅるひゅる……

どん!


花火だ
花火だ

花火がひらいた

でっかく
まあるい

花火がひらいた

真っ赤で
あざやか

花火がひらいた

きれいだ
きれいだ

きれいな花火だ

今年も
いっぱい

花火がひらいて

僕らを
なんども

楽しませてくれた


ここは田舎の
小学校

ここの屋上は
特等席

花火を見るには
いっとうの場所


なのに

頑固でイジワル
先生たちや

ガミガミうるさい
親たちが

ここへの出入りを
禁止した


「ここはたいへんあぶないところ」

「ここでこどもがいっぱいしんだ」

「ここであそぶこいけないこ」

「きけんきけんとってもきけん」


扉をがちゃんと
閉めちゃった

おまけに階段
とおせんぼ

おかげでここは
いつもひっそり

満月なのに
今夜もひっそり


でもね

言うこと聞く子
ばかりじゃないよ

だってほらほら
耳をすませば

通路をふさいだ
机をすりぬけ

いくつもかかった
カギをこじあけ

小さなぼうやが
やってきた


ざわざわ
ざわざわ

えらいぞこの子は
勇気ある子だ

誰でも花火は
見たいもんだよ

でもでもこの子は
下向いてるぞ

花火が開けば
元気になるよ

さあさ一歩ずつ
足うごかして

もっともっと
歩いてゆこう

も少し前に
ずずっと前に

どんどん前に進もうよ

はしのはしまで
つきあたりまで

どんどん先へ進もうよ


どきどき
どきどき

おっとフェンスが
邪魔してる

なんでこんなの
つけたんだろう

いっそそいつを
乗りこえようか

ゆっくり上れば
大丈夫だから


わくわく
どきどき

どきどき
わくわく


そしてとうとう君は縁までやって来た

下は目も眩むような高さだね

だけどもはや行く手を阻むものは何もない

テストの点が悪いと叱る母親も

君を理解しようとしない担任も

毎日虐めるクラスメイトも

誰もだあれもここにはいない

君は一人ぼっちになったんだ


だからね

僕らは花火が見たいんだ

でっかくまあるい見事な花火が

ぱっと開くのが見たいのさ


だからさ

ぐずぐずするなよ

震えていないで泣いていないで

さっさと花火を見せておくれよ


早く

はやくう


と・べ・よ

翔べったら!


……

ばっ

ひゅるひゅる……

どん!

ぶしゃ!

……


ああ……

やっとひらいた
花火がひらいた

真っ赤な血しぶき
花火がひらいた

まあるい血だまり
花火がひらいた

地面いっぱい
花火がひらいた

きれいであざやか
素敵な花火だ

すごくておっきな
立派な花火だ


でも……

見たいな見たいな
まだまだ見たいな

あっと言う間に
終わっちゃったし

足りない足りない
ちっとも足りない

こんなちょっとじゃ
満足できない

もっともっと
見せておくれよ

僕らに花火を
見せておくれよ

もっと……

たくさん……


おーい

そこの君

君もよかったら

屋上へ花火を見にこないかい

楽しいよ面白いよ

だからさ……


……ね?

 

(おしまい!)

 

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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【夏休み特別企画】納涼フェスティバル 』参加作品です。

 

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ぼろぼろぼろ

 大粒の汗が、子ども用スマホの画面にしたたり落ちた。
 茜はハンドタオルを取り出して額をぬぐい、そのまま画面の汗も拭きとろうとした。しかしタオルはもうすっかり湿っていたため、うまく拭きとることができなかった。やむを得ず、表示がはっきり見えるまで、その液晶部分を何度もシャツの袖にこすりつけた。
(ここらへん……なんだけど……)
 あらためて画面を覗きこむ。さきほどからずっと、地図用のアプリは立ち上がったままだ。目的地のフラグと、自分の現在位置のフラグとは、たいして離れていないように見える。確かにそう見える、のだが……。
 茜は辺りを見渡した。正面にはどこまでも続く、長い長いアスファルトの道があった。左右にはうすら高い塀や電柱がそびえ立ち、その奥には大小さまざまな家々が並んでいる。通りには人気もなく、それどころか犬猫の姿すら見えない。よそよそしくも寂しげな、郊外住宅の一景が広がっていた。
 さらに――頭上で輝く真夏の太陽が、茜をさらなる別世界へと誘っていた。薄っぺらな黄色い学生帽だけでは、その熱を遮ることなどできはしない。すでに視界の先は蜃気楼のごとく霞んでおり、幼いながらも順序立てて考えようとする思考回路は、その動きをすっかり鈍麻させていた。
 ランドセルの縁にぶら下げていた水筒に手を伸ばしてみる。ただそれはとうに空になっていることを、再認識しただけに過ぎなかった。コンビニなどどこにも見当たらない。昔ながらの小売店すら同様である。自動販売機は目にするものの、クラスで一番小さな茜の背丈では、どんなに手を伸ばし、どんなにつま先立ちをしても、商品のボタンを押すところまでたどり着けないのであった。
(あつい……よお……)
 もうどれくらい歩いたことだろう。この町でバスを降りるまでは順調だった。なのにどこで迷ってしまったのだろう。
 表示は何度見ても変わらない。子ども用とはいえ、アプリはそれなりに動いているはずだった。ひょっとして登録した情報が間違っていたのだろうか……。
 母から届いた一通の手紙。なぜだか父は、それをびりびりに破いてゴミ箱に捨ててしまっていた。あいにく住所はちゃんと読めはしなかったけれど、郵便番号だけは見て取れた。今日はそれを頼りに、ここまでやって来たというのに。
(かえろう……かな)
 とも思ったが、もはやどの道を通ってここまで来たのかすら、わからなくなっていた。足も痛くてこれ以上歩けそうにもない。だからといって、この炎天下の中で待ちぼうけてもいられない。せめてどこか休めるところはないものかと、茜はもう一度、必死に辺りを見渡してみた。
(あ……)
 気がつけばすぐ隣には、狭い駐車場が設けられていた。もとは家が建っていたところを、とりあえず更地にして再利用しているような場所だ。そこに日本では珍しい巨大なモンスタートラックが停まっていた。そんな車を見たのは生まれてはじめてだったし、その大きさにもすっかり圧倒されてしまったが、茜が特に目をつけたのはその車高だった。縦横に厚みのある太いタイヤをつけて、かなりの高さまでリフトアップされている。その間に人が入り込んでも、全然余裕があるように思えた。
 学校では危ないから車のそばで遊んではいけないと、きつく言い含められている。しかしそのトラックは動いていないのだし、すぐ誰かがにやって来るような気配もない。少しだけ、ほんの少しだけ、この強い日差しから逃れられたらそれでいいのだ。ただそれだけのことなのだ。茜はそうやって自分の行動を正当化し、駐車場の中へと入り、そのまま車体の下に潜り込んだ。
 日陰に入っただけで、明らかに空気が変わったのがわかる。コンクリートの地面は、生温かさは感じられるものの、じかに触れて火傷するというほどではない。茜はスカートを敷いたまま体育座りをすると、ほっと大きく息をついた。
(ママ……)
 しばらくしてから背中のランドセルを正面へと回し、中を開いた。教科書や筆箱と共に、昨日の給食で食べきれなかったパンも、ナプキンに包まれて残っている。茜はそれらを隅のほうへ押しやると、丸めた八つ切りの画用紙を取り出した。留めてあった輪ゴムをはずし、その場で紙を広げてみた。
 担任は『かぞくのひとのかおをかきましょう』とだけ言った。別に『おかあさんのかお』を、とまでは言われなかった。それでも茜は母を描いた。満面の笑みを浮かべた母親の表情を、画用紙いっぱいに一生懸命に描いた。
 まわりはその出来栄えをほめてくれた。別に教室に貼り出されたり、コンクールに出品されるといったレベルのものではなかったが、自分ではそれなりに満足をしていた。そして茜は、この絵を何としても母に見てもらいたいと思った。きっと母も喜んでくれるに違いないと思った。昔の母に、明るかった頃の母に、戻ってくれるのではないかと思った。そう思うと、居てもたってもいられなくなったのだ。
 今日は土曜日で、月一の午前授業がある日だった。それが終わってから、茜は集団下校にも加わらずに、一人で飛びだしていったのだ。父親は土日関係なく遅くまで仕事に出ているし、おもり役の父方の祖母は、駅のカルチャースクールに出向く日だった。その祖母が戻るまでに家に帰りつけておけば、何一つ問題ないはずだった。
 はずだったのに。
(…………)
 茜は絵を手にしたまま、立てた膝の間に顔を埋めた。だけど、もうどうだっていい。どうなったっていい。アイスが食べたい。ジュースが飲みたい。冷房の効いた部屋に戻りたい。マンガを読んで、ゲームをして、だらだらテレビを見ながら、ソファの上でそのまま眠ってしまいたい。それから、それからそれから……。
「おい、お前。そこで何をしている!」
 突然大きな声がして、はっとなった。それと同時に大きな手が伸びてきて、腕を捕まれた茜は炎天下の外へと引きずり出された。

「こんなところに入り込んで、危ねえじゃねえか」
 相手は太った中年男だった。髪を金髪に染め、どぎつい色のロゴの入ったTシャツに破れたジーパン、サンダル履きといったラフな格好をしていた。動くたびにジャラジャラと、腰につけたキーホルダーが音をたてる。それだけでも十分畏怖の対象にもなるというのに、男は黒くて大きいドーベルマンまで連れてきていた。
 その犬はまっすぐに茜の方を向いていた。真っ赤な舌と鋭い牙をのぞかせて、荒い息を小刻みに吐き続けている。何故だかその呼吸音が、『わかっているぞ。お前のことはなんでもわかっているぞ』と言っているように思えてならなかった。
「この辺りのガキじゃねえな。どこの小学校だ」
 茜は慌ててランドセルを背中に抱えなおした。直立の姿勢にはなったが、視線は下を向いてしまう。
「ひょっとして、迷子なのか?」
 さらに問いかけられたが、何も答えられなかった。どうして自分がこの町の子どもではないとわかるのだろう。
「いずれにしても、人んちの車の下で寝ちまうなんて、ふてえガキだ。ちょっと、そこの交番まで、一緒に来い」
(……『交番』?)
 その言葉にドキンとする。当然そこにはおまわりさんがいて、そしてそのまま逮捕されて、牢屋に入れられてしまうかもしれない。そうでなくとも、父親が呼び出されて、こっぴどく叱られてしまうことだろう。そうなると母の元へは、もう二度と来ることができなくなるのではないか……。
「聞こえないのか。とにかくこっちへ来るんだ」
 男はそう言って、もう一度茜の腕をつかもうとした。
(ごめんなさい!)
 彼女は思わず、深々と頭を下げた。と、ランドセルがきちんと閉められていなかったらしく、その中身が勢いよく辺りにぶちまけられた。
「ウォン!」
 あのドーベルマンが低い声で吠えたかと思うと、いきなりあらぬ方向へと走り出した。
「あ、こら!」
 男もそれに引っ張られる感じで、茜の元から離れて行った。驚いて顔を上げると、給食の残りのパンが、ころころと駐車場の端まで転がっていくのが見えた。どうやら犬はそれを追いかけて行ったらしい。
(……逃げなきゃ)
 そう思うと茜は、急いで散らばっている教科書などを詰めなおして駈けだした。背後で何か男が叫んだようだったが、それも無視して一心不乱にその場から離れて行ったのだった。

(…………)
 どれほどの時間が過ぎたことだろう。茜は母がいるはずの家の前に立っていた。この門構え。二階建ての家屋のシルエット。表札には母の旧姓が書かれている。以前まだ仲が良かった両親と共に、車で訪れた時の記憶と照らし合わせても間違いはないはずだった。
 母はいきなり訪れた自分を見て、なんと思うだろう。喜んでくれるだろうか。それともすぐに叱りつけるだろうか。でも、そんなことは些細なことである。早く母の顔が見たい。どんな表情であってもいい。母に会えるだけで、それだけでかまわないのだから。
(ママ……)
 茜は門のポストについている呼び鈴を押してみた。「ピンポーン」という乾いた音が、かすかに家の中に響いているのがわかる。茜はなんだかそわそわして、身なりを整え、笑顔を浮かべる準備をした。
 ピンポーン。ピンポーン。
 だが何度呼び鈴を押しても、誰も出ては来なかった。
 家を間違えたか。そんなことはない。では引っ越してしまったのか。でも表札はかわっていない。買い物にでも出ているのだろうか。だったらもう少し待っておいた方が良いのかもしれない。
 しかし……。
 門には鍵がかかっていて、中に入ることはできそうになかった。辺りを見渡したが、隣家にも通りにも、相変わらず人の気配は感じられない。日は傾きつつあるとはいえ、やはり日差しは強いままだし、何よりそろそろ帰らないと、祖母が自分がいないことに気付いて騒ぎ出すのではないだろうか。
(…………)
 茜はギュッとその小さな手を握り締めた。今日のところは仕方がない。もともと無理な計画だったのだ。またいつだって来る機会はある。家の場所はもうわかったのだし、今度はちゃんと飲み物とかも準備して、いや、もう少し涼しくなってから来たっていいんじゃなかろうか……。
(そうだ。絵だけでも……)
 あの絵だけは、すぐにでも母に見てもらいたかった。自分が今日ここまでやって来たという証しでもあるし、なによりあれを見れば、今の自分の気持ちを理解してくれるに違いない。今でも自分は母を愛していること、母がいなくてとても寂しいのだということ、それらを十分にくみ取ってくれるに違いなかった。
 ポストにでも入れておくことにしよう。茜は急いでランドセルを下ろして、お目当ての品を取り出そうとした。
(……あ、あれ?)
 ところが、ランドセルのどこを探しても、あの絵は入っていなかった。
 ランドセルをひっくり返した。また辺り一面に中身が散らばっていったが、肝心の絵だけがみつからない。やがて茜は、ふっとあることに気がついてしまった。
(あの時……)
 最後に絵を眺めたのは、あの車の下に潜り込んだ時だ。その後、男に見つかって、急いでそこから逃げ出して……そのあたりから絵に関する記憶が曖昧になる。手に持ったままだったのか。それともランドセルにいったんしまったか。いやあの場でも中身をぶちまけてしまったのだから、拾っておかないといけなかったはずだ。それに最初は輪ゴムで留めていたのだから、それもつけ直さなければならなかったはずで……。
(…………)
 もはやあの駐車場に戻ることはできない。なによりあの場所がもうどこにあるのかすらわからない。あの絵に名前は書いてあったけれども、住所までは書いていないので、運よく誰かに拾われたとしても単なる落書き、あるいは単なるゴミにしか思われないだろう。
(うっうっうっ……)
 ぼろぼろぼろと、大粒の涙がしたたり落ちた。
 茜はその場に立ちすくんだまま、もはや力なく泣き続けるよりほかないのであった。


(終)


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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【第10回】短編小説の集い 』参加作品です。

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ばらばら その3

第二章

 1

 それから二週間ほどたったある日のことです。
 この日もいろいろな出来事があって、長い一日となりました……。

 すっかり世間では、夏本番といった感じになっていました。街のあちらこちらで、はしゃぐ学生連中の波ができていて、どこもひどく混雑していました。
 時刻は昼過ぎだったと思います。僕はブラブラと、時間をつぶせる場所がないかと、さまよっていました。
よく行く大型書店は休業日でしたし、数日前パチンコでボロ負けしてしまったので、手元にはまったくお金がありませんでした。予備校に戻るには少々敷居も高く、家へ帰るにはまだ早すぎました。どうにも中途半端な時間帯だったんです。
公園の日陰で昼寝でもしようかとも思いましたが、いい年した大人がベンチでたたずんでいるだけで、警察を呼ばれかねないご時世でしたからね。なるべく人ごみを避けながら、歩き続けていました。
「やあ、秀一くん」
 そんなところで、いきなり名前を呼ばれて、心臓が止まるほど驚きました。振り返ると金田さんが、汗を拭き拭き立っています。「こんちわ。今日も暑いね」……人懐こそうな笑顔です。でもやっぱり、目は笑っていないようでした。
 マズイところを見られた、一瞬そう思いました。僕は小声で何か返事を返しましたが、きっと目は泳いでいたことでしょう。極度に緊張して、カチコチになっていたかもしれません。わきの下に、いやな感じの汗もかいていました。いつもこうして予備校をサボっていることを、金田さんに、よりにもよってこの人に、知られてしまったかもしれない……と思ったわけですからね。はたから見れば、いかにも挙動不審な態度にも写ったんじゃないでしょうか。
 でも金田さんは、そんな僕のふるまいなど眼中にないのか、それとも見えていても無視しているのかどうかわかりませんでしたが、「ちょっと涼んでいかないかい」と言って、顎をしゃくって近くの喫茶店へいざないました。僕は「はあ」とか「はい」とか、返事にならない返事をして、さっさと先を急ぐ彼の後をついていきました。
 繁華街にあるにしては、薄暗くてかなり寂れた雰囲気の店でした。冷房をかけすぎているせいか、急激に汗が引いていった代わりに、寒気すら感じられました。また、客は僕たち以外は、誰もいない様子でした。
 金田さんは水とおしぼりを持ってきたウェイトレスに、即座にアイスコーヒーを二つ注文して、「ウマいのをね」と、付け加えました。さらに、そのウェイトレスが行ってしまってから、「……で、いいよね」と、僕に確認するのでした。僕は小さくうなずいて、おしぼりで顔を拭き始めた金田さんの姿を見ているだけでした。
「この近くに、僕のお得意さんの会社があってね」
 と、金田さんは拭き終わったおしぼりを、テーブルの上に投げ捨ててから話しはじめました。
「……そこに寄った帰りなんだよ。そこの社長さんは、前の前の会社にいたころからの付き合いで、男気のある方でね。新しい保険のことを話したら、『よし金田が勧めるんならうちの会社の人間全員に入らせる』なんて言ってくれてね。大口の契約がとれたんでいい気分だったところに、君の姿を見つけたところだったんだ。だからここはおごらせてもらうよ。いいよね」
 僕はぎこちなく、愛想笑いを浮かべていたと思います。そんな僕にかまわず、それからまた金田さんは、一方的にべらべらしゃべりはじめました。
「いやー、でも、僕がこれまで一度で取った契約者数の記録には、到底及ばないけどね。そんときも、ほんと幸運が僕に味方してくれてさあ……」
 正直、聞くに耐えないと思っていました。自分には関係のない話ですし、とどのつまりは自慢話なわけですから。でも僕は、ヒマでしたし時間もつぶせるし、おごってくれるというなら好きにさせよう、少しは我慢してやろうと割り切ってはいました。
 ところが金田さんは、話題がまた別の契約話に移っていったあたりで、ふいに、
「ところで、秀一くん、受験勉強の方はどうだい?」
 と、矛先を変えて、僕の方に話をふりました。
 僕は、そのとき飲みかけていた水を吹き出すまではいきませんでしたけれども、さすがに不意をつかれて、また心臓が止まるような心地になりました。
「え……ええ、まあ……ぼちぼちです」
 僕はなんとか答えました。一方で、どこの何がぼちぼちなのかって、自分で自分に突っ込んでいましたね。
「そう……僕も経験あるけど、つらいよねえ、大学受験って。なかなか志望のとこの点数に手が届かなくてさあ。大いに苦しんだよ、僕もね……」
「はあ……」
「でも僕は運良く、いいところの大学に滑り込むことができて、後はずっとバラ色だったよ。バイトもサークルも恋愛も大いに楽しんだし、就職のときも、結局大学名がモノを言ったからね。やっぱり努力して苦労した分は、おのずとちゃんと帰ってくるものなんだねえ」
 なんだやっぱり自慢かよ、と閉口しはじめたところ、
「秀一くんはどこの大学を志望しているの? 学科は? 専門は?」
 矢継ぎ早に質問をしてきました。僕は慌てて、
「はあ、まあ……どこでも、入れるところでしたら……」
 と、お茶を濁しました。
「おやおや。あまり高望みしないタチなんだね」
 金田さんは笑いながら言いました。しかし、やっぱりその目は笑っておらず、ずっと冷めた感じで見つめられていましたので、僕はますます小さくなりました。
(どこの大学を志望しようと、あんたには関係ないだろ……)
 内心では、そう毒ついていました。
 ところが、金田さんは急に真顔になって僕に向き直ると、
「秀一くん、人生は大学だけじゃないぞお」
 と、言い出しました。 
(はあ? さっきと言っていることが逆になっていないか?)
 そう思う僕を尻目に、金田さんは話を続けました。
「最初に言っていた社長さんの会社、ビルの施工なんかの下請けを行う工務店なんだけど、あそこは今、ひどい人手不足なんだってさ。社長さんはワンマンなんだけど、会社はアットホームで家族的な環境なんだよ。皆仲いいしね。でも若い子があんまり長く居着かないそうなんだ。世の中不況って言っても、まだまだ若い人って高望みしているというか、変により好みしすぎだとも思うんだけどねえ」
(えっ?)
 なんだか話が、少しおかしな方向に進みはじめているのがわかりました。ですが、金田さんの話は止まりません。
「でも僕は、今は中小が狙い目だとにらんでいるんだ。小さいところからでも、コツコツと経験を積んでいって、いずれは独立すればいいだけだし、うまくいけば、大きく名や財を残すことだって不可能じゃないと思うよ……これこそ、男のロマンだと思うんだけどねえ」
 と、ちょうどそこへ注文していたアイスコーヒーが運ばれてきました。金田さんは、片手をあげてウェイトレスに形ばかりの礼をすると、ミルクとシロップを自分のグラスになみなみとついで、一気に半分ぐらい飲み干しました。
「僕はね、秀一くんにも成り上がっていく楽しさ、のし上がっていく喜びを、ぜひとも味わってもらいたいと思うんだ……それがいいよね。そっちの方がなんかいいよね。じゃあ、これからすぐに、社長さんに連絡して……」
「ちょ、ちょっと待ってください。急にそんなこと言われても」
 さすがに僕は口をはさみました。何を勝手に決めているのでしょう。
「そうかい? 君に取ってもいい話だと思うけどねえ。こんなこと、秀一くんだから話すんだよ。世間の荒波に立ち向かって、一人前の男になりたいとは思わないのかい」
 金田さんはそこまで言うと、ちょっと声のトーンを落としました。
「……君のお母さんの心配の種もなくなるっていうもんだしさあ」
 母が?
「あの……母が何か、言ったのでしょうか……」
 そっちが気になりました。
「いやいや、お母さんもね、いろいろ悩んでいるとは思うんだ……面と向かって言うことは、そりゃないだろうけど、君の将来のこととかさあ」
 金田さんは一瞬つい口を滑らせてしまった、といったような表情を見せましたが、すぐにまた話しはじめました。
「君も……このままじゃ駄目だと思っているんだろ、ん?」
「僕は……確かに、はたから見れば不安で頼りなさげに見えるかもしれませんが……将来のことも、きちんと考えています」
 たぶん……いえ、きっと、そうだったのでしょう……。
「へえ。じゃあ、どんな風に? 聞かせてくれよ」
 金田さんは大きく胸を張って、背もたれに体をあずけました。完全に僕を見下ろすような姿勢です。「さあどんな立派な考えを持っているか聞かせてもらおうじゃないか」「どうせたいしたビジョンなんて持っちゃいないんだろ?」……そんな内心の声が聞こえてきそうです。
「それは……」
 僕は結局、そのまま何も答えられませんでした。
 と、しばらくして金田さんは、突然笑い出しました。店内に響き渡るほどの大きな、甲高い笑い声でした。
「いやあ、失敬失敬。いじめるつもりはなかったんだけどねえ。そこまで思いつめるとは思わなかったんだ。悪かったね」
 金田さんはおかしくてたまらないという風に体をゆすり、懐からタバコを取り出して火をつけました。そして大きく鼻から煙を吐き出すと、
「秀一くんは、どうやらあまり世間ずれしていないようだね。君のお母さんは、よっぽど君を大事に育ててきたとみえる」
 そう言うのでした。もちろんそれは、嫌み以外の何ものでもありません。ですが僕には、それを言い返せるだけの力は、もうありませんでした。
「それに君はおとなし過ぎるよ。顔色は悪いし、太りすぎじゃないか。運動するなり鍛えるなりなんかして、少しは身奇麗にもしないとな」
 金田さんが僕の肩をバンバンとたたいて、また笑います。その笑いはもはや、はじめのころの抑えたポーズだけの笑みではなくなっていました。なんともいやらしい、下卑たものになっていました。こっちが金田さんの本当の「笑い」なのでしょう。
「でもまあ、さっきの話だけどね。真剣に考えておいた方が良いぞ。何度も言うけど、お母さんのことを考えたら、一刻も早く社会に出て、君が働いて楽をさせてあげた方がいいに決まっているだろう? モラトリアムもいいけれど、そんなものは麻疹みたいなもので、十代のうちに、終わらせなきゃいけないものなんだからな」
 完全に言い方が、説教口調になっていました。
 ここにも金田さんのやり方の一部が、垣間見えるかようでした。相手の立場が弱いとわかれば、一気呵成にずけずけと踏み込んでくる……。
「け……結構です。自分のことは……自分で何とかやりますから」
 僕はか細い声で、そう返すのが精一杯でした。
「そうかい。まあ、無理強いはしないけれどもさあ」
 金田さんはまだ何か言いたげでしたが、僕はすぐに立ち上がりました。へんな勢いがついてしまったので、一方の膝がテーブルに当たって、「ガチャン」と大きな音がたってしまいました。
「すみません……し、失礼します。ごちそうさまでした」
 僕はぎくしゃくと頭をさげて、席を立ちました。とうとう自分のアイスコーヒーには、一度も口をつけませんでした。
 外に出た僕は、照りつける強い日差しと、むっとした熱い空気に、思わずたじろぎました。それでも、すぐにその場から離れようと、必死に足を早めました。心の中は屈辱と怒りがぐるぐると渦を巻いて、それからどのようにして家に戻ったか、まったく記憶にありません……。

 そのとき、金田さんを「殺してやりたい」と思ったかって?
 そうですね……きっとそうだったんでしょうね。でも……思うことと、実際に手にかけることは違うわけで……。
 いや、今の話は別に、僕の中に芽生えた「殺意」についてではなくて、あくまで金田さんの人となりについて……つっこんだ説明というか、もう少し理解を深めていただこうと思っただけで……ただ、それだけで……。

 あなたはどんな風に感じましたか?
 金田さんは、面倒見のいい、男気のある、立派な人物だったと思いますか?
 金田さんに、好意を……感じることができそうですか?

 僕は……とうとう最後まで、金田さんを好きにはなれませんでしたけどね……。

ばらばら その2

 2
 
 母はずっと、保険の外交を仕事にしていました。
 訪問型の保険外交を専門としているというだけでも、その当時ですら、かなり怪しいことをやっていたとは思うんですが、そんな母でも女手一つで僕を育ててくれて、二年も浪人させてくれて、小遣いも含めた生活費を、すべてまかなってくれていたわけですから、感謝しなければならないのは承知しています。実際、有能でやり手ではある、ということは、金田さんからも聞かされた話です。
 なので、じゃあ普段どんな風に仕事をして、どんな風に業績を上げていっていたのか……なんていう具体的な話には、僕は関心を持とうとは思いませんでした。それについて、なるべく考えないようにしていました。聞いたところで、僕にはそれを受け入れる以外に、道はありませんでしたからね。
 僕はあらゆる面で、母に頼りきっていましたから、母が外で何をしようと、どのように稼ごうと、自分が養われている限りは、それに従おうと思っていました。
 さらに母はわが家では、ワンマンとして振る舞っていました。炊事洗濯掃除といった、いわゆる主婦業全般に関しても、すべて母が取り仕切っていましたね。僕は何一つ、家のことをさせてはもらえませんでした。ただかなりの気分屋であった上、いろいろなストレスがたまっているせいか、だんだんと扱いにくくなっていったのは困りものでした。そのころが、母のイライラのピーク、だったのかもしれません。
 例えば料理とかで、ちょっと味付けが濃かったり薄かったりして、思わず口に出したりすることがあるじゃないですか。すると途端に怒り出すんです。「自分は忙しい合間をぬってきちんと食事の用意をしたのに文句をたれるとは何ごとか」ってね。自分の思い通りにならないことがあると、すぐにかんしゃくを起こしてへそを曲げるんですよ、まったく……
 人間だから間違いはあるし、ちょっとした愚痴じゃないけど、気がついたことをつぶやいただけなんですけどね……。
 だから僕は、だんだんと母の前では何も言わないようになりました。なるべく母の目に付かぬように、母がいるときは、うちの中ではずっと小さくなっていました。
 
 ……まあ、一番思い通りにならなくて、一番目障りだった存在が、自分の実の息子であったわけですから、母の怒りは、もっともだとも思えるのですが……。
 
 ……話がそれましたね。
 そうそう、金田さんのことです。
「やあやあ、君が秀一くんだね。はじめましてこんにちは、金田です金田です金田です……ハハハ。よろしくね」
 母と一緒に入ってきた金田さんは、僕の顔を見るなりこう早口で自分の名前を連呼して、握手を求めてきました。僕は思わずそれにこたえてしまったんですが、その手は大きくて柔らかではありましたけれど、ひどく汗ばんでいてヌルヌルしていましたね。
 金田さんは続いて、恵美にも同様の挨拶と握手をして、それから部屋の中央にどかっと腰をおろしました。上着を脱ぎ捨て、ネクタイをゆるめて、手に持っていたセカンドバックを、ポーンとちゃぶ台の上に放り投げました。いかにもこの家のあるじは、たった今からこの自分だ、とでも言うように。
 僕の金田さんに対する第一印象は、あまり良いものではありませんでしたね……。
 
 金田さんはリラックスした体勢になると、ハンカチで自分の額や首すじの汗をぬぐいながら、今度は自分の自己紹介を、大声で話しはじめました。
 この春に母のいる会社へ転職してきたということ。もともとずっと営業畑を歩んできたこと。年は四十五歳、バツ一の独身であること。母には、大変「お世話」になっていて、今日も夕食の誘いを受けて、非常に感謝していること……などなど。
 金田さんのことで少し驚いたのは、その年齢でした。なんと、母よりも年下だったんです(母が外でいくつサバを読んで働いていたかはわかりませんが)。見たところ、二つ三つは年長のようにも思えました。彫の深い、濃い顔立ちのせいでしょうか。黒々と焼けて、色目の悪い肌つやをしていたせいでしょうか。猫背で小太りの、典型的な「オヤジ」の風体だったからでしょうか。
 でも、後になって恵美が言っていたことなんですが、服飾品なんかに関しては、そのときは結構良いものを身に付けていたんだそうです。スーツに靴下、汗を拭くハンカチなんかにいたるまで、よく知られたブランドものでそろえていたようですね。
 しかしそれらが、金田さんの「オヤジ」ぶりを中和していたか、と言われれば、その効果はあまり出てなかったと思いますけどね。服はともかく、ごてごてした金色の腕時計を、これみよがしに見せ付けられると……ね。
 でもまあ……何度も言いますが、僕もあまり人のことは言えませんからね。趣味や価値観なんて、人それぞれですし……どんなに悪趣味だったからって、どんなに気に入らない格好をしていたからって、だからって、その……「あんな目にあって当然」とは……さすがに思えないわけですから……。
 
 とにかく、その夜は金田さんと、そして恵美も一緒になって、夕飯を食べることになりました。
 ……母と金田さんの関係? ええ、すぐにわかりましたよ。金田さんの方はともかく、母は結構入れ込んでいるなって。その場ではずっと猫かぶっているみたいに控えめでしたし、何よりうちに呼んだ、っていうのがその最たる理由でしたね。また母の病気が始まった、僕はそう思っていました。
 すでにお話したように、僕にはちゃんとした父親がいません。でもそのかわり、父親「代わり」になってくれた人は、ごまんといました。つまりは母の愛人です。
 母は惚れっぽい人でした。小柄で色黒で痩せぎすで、自身はもてるようなタイプじゃなかったと思いますが、姉御肌で付き合い方もさっぱりしていたようですし、何より営業で培ったトークが武器になったんじゃないでしょうか。これと思った人がいれば、熱心に口説き落として、さらに進展していくと、自宅へ招待して手料理を振る舞うんです。それがいつものパターンでした。
 相手は……いろいろな人がいましたが、どれも少なくとも最初のうちは、特にまだ僕が幼かったころは、僕にとっても「いい人」たちばかりだったと思います。
 ただ、その蜜月期間はいつも短いものでした。一年ほど続けば、それだけでトップランク入りですよ。たいてい二・三か月か、よくて半年、ときには何週間ということもありました。僕の「父親代わり」の人は常に入れ替わって、その座が暖められることはまれでした。
 くわしいことは、当然母は何もしゃべろうとはしませんから、僕にはわからないことばかりなのですが、フラれるのはいつも母の方だったのではないかと思っています。かなり独占欲も強い人でしたから。すべて自分の思い通りにしようとしていたんじゃないですか。過干渉ぶりが耐えきれなくなって、男の方が根を上げて破談宣告。そんな展開を、想像するんですけどね。
 そのときも僕は、母と金田さんとの関係を、かなり冷めた目で見ていました。今度はいつまでもつのやら。そう呆れてもいました。これも言いましたけど、金田さんに対しては、最初から悪印象しか抱いていませんでしたから……なおさらですね。
 
 ただ、ひとつだけ、小さいけれども大きく違っていたと思うのは、たまたまその場に恵美も居合わせていた、ということなんです。そのことが、恵美の運命だけでなく、その場にいた他の三人すべての運命まで、大きく変えてしまったんじゃないか……ということなんです。
 もし恵美が……母たちが帰るよりも先に自宅へと戻っていたなら。ここで金田さんに、出会いなどしなかったなら。ひょっとして後々の「悲劇」は起こらなかったか、全く違うものになっていた。そうも思えるんです……。
 
 ……どうにも話がズレますね。
 
 金田さんはひたすら、ずっとずうっとしゃべっていました。
何でそんなにしゃべるネタがあるのかっていうぐらい、ひっきりなしにしゃべっていました。
 例えば、その日の夕食のメニューはカレーだったんですが、一口食べては、母の料理の腕をべた褒めするんです(たかがカレーですよ!)。味とか辛さとかはもちろん、具の肉やジャガイモなんかが、ちょうどいい柔らかさになっているとかなんとか言って(カレーを食べていてそこまで話すような人っていますか?)。さらに驚いたことに、それを聞いた母も、まんざらでもないみたいな顔をしているんです。開いた口がふさがらないって、ああいう場面に出くわしたときのことを言うんでしょうね。
 そのほか、僕が浪人生であることは、事前に知っていたと見えて、それとなく受験のノウハウみたいな話も、織り交ぜてきたんです。試験で高得点を取るコツみたいな話……不正スレスレの裏技の使い方……自身の大学受験のときの体験談や知人・知り合いらの珍騒動にいたるまで、あれこれ面白おかしく話していましたよ(これも詳しい内容についてもまったく覚えていませんけどね)。
 その後は、恵美を交えての、大学生活の与太話です。サークルだとか、講師に関するネタをいくつも披露していました。恵美はもちろん、母までがずっと笑っていましたね。
 
 ですが……僕はちっとも楽しめませんでしたね……。
 
 そりゃあ、なんというかその場の雰囲気というか、それに流される感じで笑って見せたりもしましたが、腹の底から笑えないというか、何だか「違和感」を感じていました。「何か変だぞ」って、もう一人の自分が警告を発しているような感じです。僕はその元凶を探り出そうと、いつしか金田さんを、こっそり観察するようになっていったんです。
 そして、だんだんとわかって来ました。
 まず気づいたのは……目です。目だけは、いつも笑っていなかったんです。なんていうんですかね……ほとんど動いていなくて……じっと一点を見つめているような感じで……試しに、目だけに集中して金田さんを見てみると、どうにも冷たい印象へとかわっていくんですね。
 そして声が……低いんですけど、やたらと張られて大きかったんです。これが緩急織り交ぜながら、果てしなく続くんですね。こう「自分の話を聞け聞け聞け」って主張しながら、ずっと……確かに話の内容自体は滑稽なんですよ。ためになる話もしてくれてですね。ですけど……こちらが休む暇すら与えられないとなると……聞く方も疲れてしまいますよね。
 金田さんもやり手のセールスマンであったことは、今度は母の方から、後々何度も聞かされた話なのですが、たぶん、その営業のやり方っていうのは、いつもそんな感じだったんじゃないでしょうか……勝手な想像ですけどね。
 最初は馬鹿話で釣っておいて、少しでも話しに乗ろうものなら、とにかくガンガンと話を続けて、こちらがひるんで疲れきって何も考えられなくなったあたりで、無理やり書類に判を押させて契約成立……みたいな。なんとも強引な方法でもって、業績を伸ばして行っていたんじゃないかって、邪推したりもするんですけれども。
 でもまあ、そのときはそこまではっきりと、その「違和感」を形にすることはできませんでした。僕は夕食を食べ終わるや否や、すぐに自室へと引きこもってしまいましたから。とにかくその場から離れたかった……というか、逃げ出したかったんです。そのときも……ね。
 僕の部屋は(よかったらあとで実際にご覧にいれてもいいですが)、玄関から入って左側、家の前の通りにも面した離れに位置していました。ここの居間とは、確かに距離だけは離れていたんですが、うちはこのとおり平屋で安普請ですからね、金田さんの声が、低くてやたらと響くこともあって、そこでの様子はまるまる筒抜けでした。机の上に参考書とかを出したりして、久しぶりに受験勉強をはじめたりもしたんですが、集中できずにすぐに投げ出してしまいました。
 僕は机のなかからタバコを取り出して、窓を開けてから火をつけました。母がタバコ嫌いでしたから、家ではほとんど吸うことはなかったんですが、イライラがつのって、どうにも我慢ができなくなったんです。
 続けざまに二・三本ほど吸って、それからはベッドに横になり、布団を頭から引っかぶって、ヘッドホンでラジオを聞いていました。ボリュームをめいっぱい上げて、金田さんの声やみんなの笑い声を、シャットアウトしようとしていました。
 ところがしばらくすると、誰かが僕の部屋のドアを開けようと、ガタガタさせているのに気がつきました(ドアは立て付けの悪い引き戸でしたから開けるためには少々コツがいりました)。なかから開けてみると、恵美がそこに立っていました。
「開けてくれて、ありがとう」
 と、恵美は言いました。
「あ、いや……」
「……騒いじゃってごめんね。お勉強の邪魔になっていないかな」
 それから、少し申し訳なさそうな顔をしました。
 きっと……恵美は恵美なりに心配して、僕の様子を見に来てくれたのでしょう。そんな風によく気がつく子でもあったんです……。
 
 ……すみません。最近どうにも涙もろくて……。
 
 しかし……やっぱり僕は、それを拒絶しました。
 僕が、離れてしまったのは、金田さんの話し方やその態度によるものもありますが、それよりも一番の理由は、恵美がそれを受け入れて、心の底から彼の話を、楽しんでいるように感じられたからです。
 僕には絶対にできないような芸当を、金田さんはやすやすと行っていました。単なるねたみとか逆恨みとか、そんな風にとられてもかまいません。でも僕は……そこに、すでに述べたとおり、何か「違和感」を感じていたんです。
 それに気づいたからこそ、恵美には……恵美にだけは、金田さんに惑わされないで欲しい、僕の側から離れないで欲しい、そう思っていました。その「違和感」を、共に感じ取って欲しい、そう願っていました。でも……でも恵美は……。
 彼女は「金田さんていい人ね」と、言いました。「あんなに面白い人はじめてだわ」とも言いました。「シュウちゃんもひとりで根をつめていないで金田さんのお話の輪に加わればいいのに」とそんなことまで言いました……なんと、愚かな。
「……勉強の途中だから」
 恵美の目の前で、ぴしゃりと戸を閉めてやりました。もうこれ以上、何を言っても無駄だと思いましたし、何より恵美を説得させる術を、僕は持ち合わせてはいなかったのですから。
 恵美は、しばらくドアの外から何か声をかけてくれていたみたいでしたが、僕の方で無視しました。またヘッドホンをして、布団にもぐりこんでしまいました。やがて恵美はあきらめて居間へ戻り、金田さんがやっと重い腰をあげるまで、彼の独演会につきあったみたいでした。
 そうして、長い一日が終わったのでした……。
 
 そうです。その日がすべてのはじまりだったんです。
 また僕を含めた四人全員が、「生きて」そろった、最後の日でもありました……。
 
 あれから何度も、その日の出来事を思い返します。そしてそのたびごとに、いつも考えるんです。そのとき僕は、後の「悲劇」を防ぐために、何かできることが、するべきことがあったんじゃないか、って……。
 僕はすでに、今お話したように、予兆のようなものを感じていたはずなんです。それを信じていれば……何か行動を起こせていれば……。
 
 じゃあ、何を、いったい、どうすれば……?
 
 それとも……僕には運命を変える力など、はじめから持っていなかったんでしょうか……どうすることも、できなかったんでしょうか……。
 あの……あなたはどう思いますか? 僕がやるべきだったことは、やってはいけなかったことは、何ですか? 何だったと思いますか?
 
 教えてください……ねえ……お願いします……。
 お願い……。

君の願い、僕の願い

「世界中の人々が幸せになりますように」
 
 真摯に祈りを捧げる君の横顔を、僕は隣で薄眼をあけて眺めている。今の君はたまらなく美しいけれども、その祈りは実は父親に向けたものであることを、僕は知っている。彼は本気で世界平和を求める大馬鹿者で、君は彼の夢の実現が、自らの幸せにもつながると信じている。だけど君がこれ以上悲しむ姿なんて見たくない。僕は君だけの、いや君と僕、二人だけの幸せを、願わずにはいられない。
 
「大丈夫。願いはきっと叶うよ」
 
 僕は君を励ますふりして、自分への言葉を口にした。それからポケットに潜めたナイフの刃に触れ、焚きあがる邪な想いの熱を冷やしながら、秘めたる計画の遂行を心に決めたのだった。
 
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 本作は『Twitter300字ss』企画参加作品です。

雨は激しく

 ノックの音がした。
 安雄はしばらくの間逡巡していたが、絶え間なく音が続くので、あきらめて玄関のドアを開いた。
「やあ、ひさしぶり」
 目の前には、ひょろりとした背の高い男が立っている。
「ええと……」見たような顔だった。話したこともあるような気がした。だがいつどこでだったかまでは思い出せない。同級生? バイト仲間? 同じアパートの住人? どれも正しいようで、どれも違うような気がした。
「ひどいなあ。○○だよ。××ゼミで一緒だった……」
 肝心の名前もゼミ名もよく聞き取れなかったが、『一緒だった』と言われれば、それはそうなのかもしれなかった。
「……とりあえず入れてくれないか。びしょ濡れなんだ」見れば確かに上半身は濡れそぼって、頭からしずくも垂れている。いずれにしても、ここで追い返すのは気の毒に思えて、安雄は男を中へと引き入れた。
「雨……なのかい?」安雄はたずねた。「いきなりだよ」男は答えた。ふと彼は気になって、閉じかけたドアをもう一度開き、そこから外を眺めてみた。早咲きの桜のむこうには、澄んだ青空が広がっていた。
「降ってなんかいないじゃないか」と言うと、男は「そうかい?」と言って、ふっと笑った。人懐こい笑顔だった。さらに「でも濡れてしまったのは事実だからね」とつぶやいて、「良かったら、タオルを貸してくれないか?」と続けた。
「……」安雄は男からなるべく視線を逸らさぬように気をつけながら、いったん部屋まで戻り、すぐにタオルを手にして戻ってきた。以前、新聞屋が無理やりおいていったもので、未開封の状態だった。
「ああ、ありがとう」男は特に気にもせず、袋から出して、自分の頭にかぶせた。はじめはやさしく丁寧にタオルを髪にあてがっていたが、すぐにわしゃわしゃと力を込めてふきはじめた。
「おや……? なんだ、君も濡れているじゃないか」突然男が声をかけてきた。「えっ?」その言葉に安雄は思わず顔を上げた。「ホラ、そのズボン……」と言われてジーパンのすそを見、「そのシャツ……」と言われてデニムのシャツの袖をつまみ、「それに、その手はどうしたんだい? けがでもしたのかい?」と言われて両の手のひらを広げた。だが彼はなぜか、すぐにその手を腰の後ろへと、男の見えないところへと隠してしまうのであった。
「あと、その額は……ああ、それは汗か」言われるままに、今度はおでこのあたりをぬぐってみると、確かに滴るほどの量である。暑くも寒くもないはずなのに、どうしてこんなにも汗ばむのだろうか。「言ってくれれば、先にタオルを使ってもらったのに」男はすまなさそうな顔をした。
「いや、大丈夫だよ。これくらい……」と安雄は言ったが、次の瞬間思いもよらぬことを口にした。
「よ、よかったら、上がって、お、お茶でも飲んでいかない、かい?」
 ――ええっ?
 しどろもどろだったが、それは間違いなく、彼の口から洩れた言葉だった。
「いいのかい? でも、床が濡れちゃうし」「い、いや、いいんだ。フローリングだし。ふ、拭けば、いいんだから」「じゃあ、お言葉に甘えて」「ど、どうぞ。どうぞ」
 言葉が次から次へとあふれていった。安雄は驚き、自分に何が起こったのか、困惑していた。
「あれ? 引っ越しの準備でもしていたのかい?」先に部屋へ入った男が言った。六畳一間のその部屋は、驚くほど殺風景だった。備え付けのテレビやテーブルは隅にまとめられ、クローゼットや棚にはほとんど物が残っておらず、代わりにはちきれんばかりに中身が詰め込まれた段ボール箱が、壁に沿ってうずたかく積み上げられているのだった。
「それとも、なにかをするために片付けていたとか……」とさらに男はつぶやいた。
「『なにかをする』って……?」安雄はおうむ返しに答えた。「どういうこと、かな」口のあたりがこわばってしまって、うまくしゃべることもできない。
「だって、そこにビニールシートが」男が指さす方向には、青いビニールシートがあった。「しかもノコギリや包丁なんかも出しっぱなしで」別に指さした方向には、無造作に並べられた工具類があった。「新聞紙やティッシュをこんなにいっぱい何に使うんだい?」そこには古新聞やトイレットペーパーの山ができていた。
「それは……」
 まったく記憶になかった。しかしここは安雄の部屋なのだから、それらを用意したのも彼であるはずだった。
「ああ、ひょっとして日曜大工、ってやつかな?」男は自分の言葉に何度もうなずいて、「しかし余裕があるね……やっぱり、東京の一流企業に就職が決まった人は違うね」と付け加えた。
「ど、どっ……」
「どうして知っているのかって? そりゃそうさ。君は案外、有名人なんだぜ?」男は安雄の言葉を補いながら答えた。「そうでなくとも、僕は君のことなら、『なんでもわかっている』つもりだからね」そう言ってクスクスと笑った。
 ――なっ……。
 もはや心の中でも、安雄はまともにしゃべることができなくなっていた。
「まあいずれにしても、大事なものを忘れているじゃないか」男はすっと棚の前へ移動した。小さな写真立てが、うつぶせの状態で放置されていた。「おやおや」男はそれを立て直すと、中の写真をのぞき込んだ。どこかの遊園地を訪れた安雄と、その腕にしがみつく少女の姿が写っていた。「かわいらしい子じゃないか。ちょっと性格はきつそうだけどね」と言ってまた笑った。
「…………」
「この子も東京に呼ぶの?」安雄は答えなかった。「……っていうかこのタイプだと、断ってもついてきそうだよね」安雄は答えなかった。「思い込みも激しそうだから、その場しのぎに適当なことを言ったりすると、逆に面倒なことになるんだよね」安雄は答えなかった。「例えば……既成事実をでっちあげたりなんかして、追い込んでくるとか……」安雄は答えなかった……が。
「君は……いったい何者なんだ」
 まるで他人のような、かすれたしわがれ声だった。
「さっきも言ったじゃないか……〇〇だよ」
 やはり名前が聞き取れない。なにかひどいノイズのようなものが、そこの部分だけに覆いかぶさっているかのようだった。
「僕は、君なんて……知らない」
 だがこの瞬間に確信した。この男とは話したことはおろか、会ったことすらない。
「そうだっけ? まあいいさ。これから十分に『知り合う』ことになるんだから……」
 男は笑顔を浮かべたままゆっくりと近づいてきて、安雄の肩をたたいた。軽く触れただけのはずなのに、彼はその場に崩れ落ちた。
「おや、また雨が降ってきたみたいだね」
 その言葉にやや遅れて、雨音のような音が、かすかに耳に入ってきた。
「いや、違うな……なんだ、風呂場から聞こえているのか。ねえ、君。どうやらシャワーが出しっぱなしのようだよ?」
 安雄は膝をついたまま力なく振り返り、ユニットバスのほうを見た。そうだ。この男が来るまで、自分はそこに籠っていたのだ。体がひどく『汚れ』てしまったので、まずはそれを『きれい』にしなければならなかった。それからこの部屋で『作業』をしようと考えていて……それから……それから……。
 ――なんだ……雨はさっきからずっと、絶え間なく降り続いていたんじゃないか……。
 そしてこれから安雄が向かう先では、いつまでも、どこまでも、さらに激しい雨が吹き荒いでいくことだろう。


 (終)
 
 
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 本作は「のべらっくす」さま主催、『【弟9回】短編小説の集い 』参加作品です。
 

novelcluster.hatenablog.jp

ばらばら その1

第一章
 
 1
 
 ……「夢」を見ていました。
 「夢」の中の僕はまだ小さい子どもで、裏庭を元気に遊びまわっているんです。
 季節は、やっぱり夏でした。
 生垣にはあさがおのつるが、いくつも巻きついていました。すぐ側にはひまわりが、太陽に向かって大きな花を開かせていました。
 僕はといえば、ちょっと大きめのサンダルをつっかけて、下は半ズボン、上はランニングだけの軽装です。背後から母が、「秀一(しゅういち)、暑いから帽子をかぶらないといけませんよ」なんて言っていました。僕は「はーい」と明るく大きな声で返事をして、縁側の方からいったん家へ入り、お気に入りの野球帽を受け取って、また飛び出すんです。どこのチームの、どんな帽子だったか、もうはっきりとは覚えていませんが、まだ今でもこの家のどこかに、奥の方にしまいこんであるんじゃないかと思っています。
 そして庭に戻れば、大好きな父の姿がありました。
 父はいつでも、僕の遊び相手になってくれました。自転車に乗っているときは、しっかりと後ろで支えて押してくれましたし、きれいな蝶が飛んでいると、虫取り網で見事に捕まえてくれました。肩車をしてくれたり、両手をつかんでぐるぐるぐるぐる、僕と一緒に回ってくれたり……そして今度は、キャッチボールです。僕らの手には、すでにグラブがはめられていました。
 僕は真っ白なボールを、父の大きな体めがけて、精一杯の力で放ります。それを受けとめた父は、ゆっくりとしたモーションで、僕が捕りやすいように優しく投げ返してくれるんです。ときどき僕はふざけて、わざとあらぬ方向へと投げつけたりもするんですが、そんな球でも、父は決して後ろにそらすようなことはしません。高い球はジャンプして、左右の球はすばやく走り寄って、すべてキャッチしてくれます。まるで、プロ野球の選手みたいに、華麗なボールさばきを見せてくれるんです。
 そうやって僕らの間の、心のこもったキャッチボールは、いつまでもいつまでも続いていきました。僕はほんとに楽しくて、ずっとずうっと笑っています。家の中に居る母も、ニコニコしながら僕らを見ているのがわかります。そして父も……でも父は……。
 
 ああ、そうか……これは「夢」なんだな、と思い知らされるのは、そんなときです。
 
 父の体つきまでは、はっきりしているんです。背は高く、手足もすらっと伸びて、体は筋骨隆々、そんなたくましさを感じさせる姿です。服装は、クリーム色したポロシャツに明るい茶のズボン、足には黒いラインの入ったスニーカーを履いていました。
 ところが、肝心の父の顔は、僕がどんなに目を凝らしてみても、なぜかぼんやりとかすんでしまっているんです。笑っていることはわかるんです。いっしょに楽しんで、喜んでいることもわかるんです。だけど、表情まではわからないんです。夏の強い日差しが、ずっと父の顔を覆い隠してしまうんですね。
 その風景は、現実にあったこと、忘れてしまった幼いころの記憶がよみがえったものなんじゃないか、そう思うこともあるんですが、でも結局は、それは僕の単なる想像、こうだったらいいのにな、というたわいもない願望が、「夢」としてただ再生されただけなんでしょうね。
 僕には……「父親」と呼べるような人が、存在していませんでしたから……。
 私生児、非嫡出子っていうんですかね。戸籍にも父の名前は書いてありません。さすがに昔は、母にあれこれ問いただしたりもしたんですが、「早くに死んだ」とか「遠くに住んでいる」とか、その場その場で適当なこと言われていました。まあそれでもまともな受け答えの方で、最後には「うるさい」「だまれ」とか怒鳴られて、取り合ってもくれなくなりましたよ。
 そうそう、もう一つ、これは「夢」なんだ……ということに思い当たる節としては、その風景の中での母が、現実のそれとは、あまりにもかけ離れているということもありますね。「暑いから帽子をかぶらないといけませんよ」だなんて……そんなやさしい言葉を、僕にかけるはずがないですから。あくまでほったらかしにしておいて、僕が日射病にでもかかった後で、「この炎天下に帽子もかぶらずにはしゃぎまわったらどんな目にあうかわからなかったのかね」なんて、したり顔で言うような……そんな、そんな人なんですから。
 自分で調べて、いろいろはっきりしたのは中学生のときです。不思議な事に、「夢」は父親がいないことがわかってから、逆に頻繁に見るようになりましたね……。
 
 ……こんな感じで良いですか。ちょっと回りくどいですかね……あ、いや、これが本筋に関係があるかどうかはわからないですけれども……すべてがはじまった日のことを思い返してみたとき、なぜかまっさきに頭の中に浮かんだのが、そのとき「夢」の中で見ていた、理想の家族の風景だったものですから……すみません……。
 
 その日、僕が寝ていたのは、ここの居間のちょうど真ん中あたりだったと思います。昼飯を家で食ってから、ダラダラしていました。座布団を枕に扇風機の心地よい風にあたりながら、テレビで高校野球とか見ているうちに、いつのまにか眠ってしまったようです。「夢」の中の、子どものころの自分とおんなじような格好をして、それでいて、すっかりたるみきってしまった体を、トドのように横たえていました。
 縁側の戸は開いたまま、窓も開けっ放しにしていましたね。まあ、ご覧のとおり、そこの生垣は結構な高さがありますから、外からのぞき込まれることはなかったでしょうけれど、ほんといいご身分だと、自分でも呆れ返ってしまいますよ。
 「夢」を見るぐらいですから、眠りはかなり浅かったはずです。物音か光の加減かわかりませんが、すぐ側に人の気配を感じました。なので、徐々に目覚めかけていたんじゃないかと思います。ところが、急に肌に何か冷たい感触がして、僕は驚いて飛びあがってしまいました。「うわあ」とかなんとか、悲鳴のような声をあげたかもしれません。
 
 恵美(めぐみ)が笑った顔で、その場に座っていました。
 手には大きな、その顔よりも大きな、スイカを抱えていました。
 彼女は、白いヒラヒラのついた、ピンクのワンピース姿で……そして……そして……。
 
 恵美……ああ……めぐみ……。
 
 恵美のことを思い返すと、やっぱり胸が痛みます。恵美は隣に住んでいた幼なじみでした。年は二つほど下で、僕と同じく一人っ子でした。
 うちは片親、あちらは両親共働きで、小さいころからともに寂しい思いもしていましたから、生垣の下を潜って、互いの家をよく行き来しあっていたものです。ただいつのまにか、彼女の方からわが家を訪れることの方が、多くなりましてね。それは大きくなってからも変わることはなく、恵美は何かと理由をつけて、ちょくちょく顔を見せにきてくれていました。さすがに出入りは、ちゃんと玄関からになりましたけどね。ハハハ……。
 僕を驚かせたものは、十分に冷やされていた、スイカだったんです。恵美はそれを転がして、僕に軽くぶつけたみたいなんですね。
「おはよ。シュウちゃん」
 と、恵美が言いました。僕はずっと「ちゃん」づけで呼ばれていました。僕はその呼び方を嫌って、何度も止めるようにいいましたが、恵美は聞く耳を持ちませんでした。今にして思えば、それは彼女の、僕へのかわらぬ愛情表現のひとつだったわけなのですが、大人になりきれていない僕には、そこまでは気がまわらなかったんです。
「スイカ、いただいたの。うちじゃあ全部食べきれないから、おすそわけ」
 そう言って、スイカをもう一度抱えると、また笑いました。
 
 恵美の笑顔──。今でもまぶたに焼き付いて離れません。恵美はこう……ぽちゃぽちゃっとしていて(なのでいつも体のラインが隠れるようなふんわりとした服ばかりを着ていました)、美人とはいえない顔立ちではありましたけど(まあ僕も人のことは言えませんけどね)、でもそんなのはうわべだけの問題です。心がきれいな人は笑顔もきれいと言いますけど、本当にすてきな、とびっきりの笑顔だったんです……。
 恵美は……ほとんど最後まで、僕に対する態度、僕への接し方を変えることはありませんでした。昔からの仲のいいお隣さん。頼りがいのあるやさしいお兄さん──後の方は勝手な想像ですけどね──そんな風に扱ってくれました。そして明るい元気な姿を、いつも僕に見せてくれていました。
 変わったのは僕の方です。拒んだのも僕の方からです。その笑顔がまぶしかった。その素直さがねたましかった。それでいて、年下の女の子のやさしさに、ただ甘えていたんです。
 よくは覚えていませんが、そのときもふてくされて、ぶっきらぼうに接してしまったと思います。「ああ」とか「そう」とか、口をとんがらかせながら、気のない相槌をうっただけだと思います。勝手に部屋まで上がりこんできたことに対して、嫌みの一つもこぼしたかもしれません(恥ずかしい格好で寝ていたところを見られたわけでもありますからね)。それに対して恵美は、そんな僕の態度もさらりと流して、「冷えていたでしょ? 今すぐ、一緒に食べようよ」と言いました。そして言うやいなや、僕の返事を待たずに立ち上がり、台所へと向かいました。勝手知ったる隣の家の台所、といった感じでした。
 ときどき恵美は、僕のために食事まで作ってくれることもあったんですよ。正直……母よりも料理の腕もありましたね。偏食ぎみな僕のために、いろいろ骨をおって、献立なんかも工夫してくれたりもして……ほんとに……本当に……。
 
 恵美は……良い娘でした。非の打ち所もなかったと思います。そんな娘がすぐ側にいて、甲斐甲斐しく世話も焼いてくれる。男として、申し分のない世界だと思われるでしょう。しかし……僕も彼女のように素直に、まっすぐに成長できていればよかったんですが、そうではないことが、僕をひどく苦しめました。
 そのとき、僕は浪人中でした。しかも二浪目です。受験生ならば、夏の真っ盛りとはいえ、勉強勉強に忙しい毎日を送っているはずですよね。実際、僕は母から多額な金を援助してもらって、駅前にある大きな予備校に籍をおいていました。そこでは、ありとあらゆる特訓カリキュラムが実施されていたはずです。はず、なんですが……その年、まだ梅雨に差しかかるか、かからないかぐらいのころから、僕はそこへは、ほとんど通わなくなっていました。
 朝のうちは親の手前早くに家を出ますが、予備校には向かわず、そのままコンビニや本屋などを冷やかしたり、なけなしの金でパチンコをしたりして時間をつぶし、母の帰りが遅いことをいいことに、夕方ぐらいにはもう家に戻って来ていました。図書館に行くこともありましたが、目当ては勉強や参考書ではなく、スポーツ新聞や週刊誌の類です。そしてその日も、そのサボリの典型みたいな一日だったんです。
 「夢」? ああ、将来の方の「夢」ですか。そう……ですね、僕は、何になりたかったんでしょう? いや、冗談じゃなくて、本気でそう思います。何がしたかったんでしょうね。何もせずに、自堕落な日々を過ごすばかりで……なんとかなるわけがないじゃないですか。
 結局、僕は恵美だけでなく、母にも世間にも、ただ甘えていただけなんでしょうね。そのくせ、自分の運命を悲観したり、他人をうらやんだりなんかして……ほんとにどうしようもなかったと思いますよ。
 恵美は……きちんと目標に向かって進んでいたと思います。学校の先生になりたい、とか聞いたことがありました。大学も教育学部を選んでいたはずです。とにかく子どもが好きで、子どもに囲まれた仕事がしたいって言っていました──僕自身は嫌いでしたけどね、子どもなんて。うるさいし、生意気だし──まあ、それはともかく、恵美は真面目で頭も良かったですから、高校もトップクラスの成績で卒業して、地元の国立にストレートで合格していました。
 いつのまにかすっかり追い抜かれていたんです。僕は……いや、抜かれたのは、もっとずっとずっと前のことでした。もうそのときは、挽回することができないくらい引き離されてしまっていた、と言った方がいいんでしょうね……。
 でも恵美は、その大学生になってはじめての、せっかくの夏休みだっていうのに、まだ毎日のようにやって来てくれていたんです。変わらぬその笑顔を、僕に見せてくれたんです。僕を元気づけようとするかのように。なのに……なのに、僕は……
 僕はふてくされていました。嫌な気分にさいなまれていました。別に恵美は、僕を責めたりはしません。「予備校はどうしたの」とか「勉強はかどってる」とか、何も聞きませんでした。自分の大学生活についても、何も話しませんでした。僕を刺激するような話題を、避けていてくれたんでしょうね……ただスイカを大きく切って戻ってきて、その一つにかぶりつきながら、「おいしいね」と言って、にっこり微笑んでくれただけなんです。ただ、それだけで……。
「……そうだね」
 僕は、またそんな風に曖昧な返事をして、下を向いたまま、ずっとスイカに口をつけていました。長くしゃべったら、つい本音を漏らしてしまいそうで、それより恵美の顔を間近に見てしまったら、傷つけてしまいそうで、とんでもないことを口走ってしまいそうで、怖かったんです。いえ、自分自身がこれ以上惨めになることの方が、もっともっと怖かったんです。
 スイカを食べた後は……何を話していたのか、もうよく覚えていません。恵美が一方的に何かをしゃべって、僕が適当な相槌を打つ、そんなやりとりだったと思いますが、いかに真剣に話を聞いていなかったか、という証しみたいなものですよね。でもそのままずっと、恵美は僕の側から離れようとはしませんでした。
 おそらく恵美は、うちでの夕飯の席に、また混ぜてもらおうと思っていたんでしょう。うちでは母の意向もあって、朝晩は必ず一緒に食事を取ることになっていました。ところが恵美の家では……もはやそんな習慣すら、途絶えて久しくなっていたみたいでした。
 母がちょくちょくうわさを聞いてきたりしていましたし、少し前まで、夜な夜な隣から怒鳴り合う声が聞こえたりもしていましたから、何か家庭内に問題を抱えているみたいだってことは、さすがの僕でも気づいていましたよ。
 家庭がそんな状態なのに、よく恵美はちゃんとした娘に成長したと思いますよ。早くに家を出たい、すぐにでも独立したい……そんなことをポツリと漏らすこともありました。そんな彼女の力になってやれなかったことが、彼女の支えになってあげられなかったことが、とても……とても残念でなりません。
 
 ……ええ、そうですね。たとえ恵美が実際に助けを求めてきたとしても、僕には、どうすることもできなかったでしょうけどね……なにしろそのときの僕は、そんな恵美の事情を察することもなく、なんで早く帰らないのだろうと、腹を立ててまでいたんですからね……。
 
 そしてその日、母が帰ってきたのは、あたりがすっかり暗くなってからでした。僕はもう、恵美と二人きりのままでいることが耐え難くなっていましたから、ほっとした気分になったことを覚えています。
 ところが玄関から聞こえてきた声は、母だけではありませんでした。もう一人、誰か男の人が一緒みたいでした。恵美もそれに気づいた様子で、僕らは顔を見合わせていましたが、やがて僕らが腰をあげるよりも早く、母と連れの男性が、その姿を見せました。
 
 金田さんと会ったのは、そのときがはじめてだったんです。
 僕ら四人がそろったのは、そのときがはじめてだったんです。
 
 
(続く)