ばらばら その5

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 どこへ? それはまったく考えていませんでした。何より僕はお金も持っていませんでしたし、もう夜中ですから、あらかた大きな店はすでに閉店しています。人気のない場所はさすがに恐ろしく、とりあえず街の中心部の方へ出て、ウロウロと歩き続けました。
 はじめのうちは、昼間とは違うネオンや人の流れなどが、かなり新鮮に感じられもしたのですが、すぐに飽きてしまいましたし、さらに普段の運動不足のためか、夏の熱帯夜のじめじめした空気のためか、ひどい脂汗をかくようにもなりました。そこで僕は冷を取るために、コンビニの中へと避難したのでした。
 やがて、いろいろと漫画雑誌や週刊誌を立ち読みして、あらかた時間をつぶしてから外に出ようとすると、
「あれ、シュウちゃん」
 店の入り口で、駅から帰るところの恵美と、ばったり出会ったのでした。
 
 それから僕と恵美は、一緒に帰ることになりました。彼女の自転車を僕がかわりに押してあげて、そのすぐ横を恵美はついて歩いて……僕らはしばらく、無言のまま夜道を進んでいきました。
「……今日はサークルの日だったの?」
 意外にも、先に口を開いたのは僕の方でした。
「えっ?」
「あ、いや……こんな時間に珍しいな、と思って。大学は夏休みのはずだし……」
「……うん、そう。そうなの。サークルに出ていたの」
「そうなんだ……やっぱり……」
 話す内容もそうでしたが、どうにも気持ちや声がうわずったままで、僕は話し続けていました。しかも、視線はずっと前を向いたままで、どうしても恵美を見ることができませんでした。
「えっと……ごめん、何のサークルに入っていたんだっけ?」
「……あ、テニス。テニスサークル……軟式のだけど」
「へえ……」
 そう言えば確かに以前、テニス部に入ったことを、恵美が話をしていたような記憶がありました。真新しいラケットを見せに来たこともあったはずです。でもそのとき、自転車のカゴの中には、恵美がいつも持っている、小ぶりのショルダーバックが乗せられているだけで、そのテニスラケットは、どこにも見あたりませんでした。
「あれラケットは? 学校にでも置いているの?」
 疑問に思った僕は、すぐにそのことを聞いてみました。
「あ……えと、今日は今度の夏合宿のための会合があってね。話し合いだけだから、ラケットを準備してなくても良かったの。それが……ちょっと長引いただけ」
「合宿……か」
 やっぱり大学生になると、夏休みになっても、そういったイベントごとで忙しくなるんだろうなと、漠然と考えていました。そして僕は、
「で、どこまで行くの?」
 少し話を長引かせようと、さらにいろいろと聞いてみました。
「う、うん。何だか、信州の方なんだ」
「『信州』かあ……」
 と、言ったところで、僕には軽井沢辺りの、漠然としたレジャー施設のイメージしか頭に浮かびませんでした。
「……小さいとこだけど、ちゃんとしたテニスコートはあるし、裏山に展望台があって、そこから見る夜景がとってもきれいなんだって」
「ふうん……いいところみたいだね」
 僕は、心にもないことをつぶやいていました。
「うん、そうだね……」
 恵美も、なんだか元気なく、返してきました。
 
 ……ちょっとお尋ねしますけど、旅行は好きですか? 最後に旅行に出られたのはいつですか? 一人きりじゃなくて……友人と一緒でも、恋人と一緒でも、家族……と一緒でもいいんですが……。
 実は僕は、そんな旅行らしい旅行に出かけた記憶が……あまりなくてですね……。
 母は土日関係なく仕事に出ることが多くて、なかなかまとまった休みをとることも難しかったみたいです。それに……たとえ金や時間に余裕ができても、いつしか母は、僕なんかよりも、そのときどきの恋人との逢瀬を最優先するようになりましたから。僕はいつも置いてけぼりでした。おまけに僕自身も、だんだんと人が集まるようなところを避けるようにもなっていったので……まあ、その理由は、あえて言わなくてもお分かりのことと思います……。
 
 ……そんな僕でも、そんなサークルでの合宿とか、ホテルやペンションでのお泊りなんてのには、少しは憧れみたいなものを抱いていたわけです。きっと楽しいに違いない、当然、そう考えていました。だから、そのときの恵美が、なぜそうじゃないのか、言葉少なで口が重いのかが、まったく理解できませんでした。僕を気づかって、とも違った感じでしたから……。
 
「いつ行くの、合宿」
「十日ぐらい先……になるかな」
「……そう」
「……うん」
「……」
「……」
 と、会話はそこで、とうとう途切れてしまいました……。
 
  恵美の様子がどうにもおかしいことは、コンビニの前で出会ってからすぐにわかりました。暗い表情をして、何やら思いつめた様子なのです。普段と違う恵美の態度に、僕は戸惑っていました。
 
 僕の方から話しかけよう、話し続けようとしたのは、もちろん恵美のことが心配だったからです。話しかけているうちに、何か彼女の悩みの糸口がつかめるかも、と考えたからでした。
 別に焦っていたわけじゃありません。恵美に対して、何かしらの負い目を感じていたから……そういう理由でもありません。自分のため……なんかじゃなくて、あくまで恵美のことを思ってですね……。
 
 と、とにかく……これまではいつも、恵美の方から取り留めのない話題を振ってもらって、僕がそれに応えるという形で会話を成立させていましたから、僕の方から話し掛けるというのは、なかなかうまくいきませんでした。そして僕が次に何を言おうか、迷っていますと、
「……悩んでいるの」
 恵美がポツリとつぶやきました。
「何を?」と、僕が間抜けに聞き直すと、
「……合宿。行こうかどうしようか、迷っているの」と、答えるのでした。
「……?」
 僕は足を止め、そこでやっと恵美の方を向いて、
「どうして?」と、問いかけてみました。
「なんだか……怖くて」
 怖い? 何が? どうして? 恵美も足は止めましたが、下を向いたままです。僕にはなんだかわかりませんでした。
「サークル楽しくないの?」
「ううん。そんなこと、ないよ」
「誰か嫌な先輩がいるとか」
「ううん。そんなこと、ないよ」
「じゃあ……」
 僕が次に何を聞こうかと考えていると、
「ううん……ちょっと面倒くさいな、って思っただけ」
 と、やっと顔を上げて、手を振りながら、ぎこちない笑顔で答えたのです。それはいつもの笑顔とは、まったく違っていました。
「恵美……」
「ごめんなさい……今言ったことは、忘れて」
 ひょっとしたら僕は、無理やりに恵美に問いただすような形になっていたかもしれません。でも、恵美の口から「面倒くさい」なんていう言葉が発せられたことは、僕にとっては、非常に驚きでした。
「……ごめんね」
 また恵美は僕に謝っていました。
「……」
 それに対して僕は、またかける言葉を失っていました。
「……」
「……」
 それからまた二人は歩き出しました、長い沈黙が続きました。
 
「あのさ……」
 僕は次第に、その沈黙に耐えられなくなって、それで、
「……母さんも、金田さんと旅行出かけるみたいでさ……」
 と、先ほど母とやりあったばかりの話題を、つい漏らしてしまいました。
「……旅行?」
 恵美は今度は、すぐにおうむ返しに聞いてきました。
「場所や日取りまでは聞かなかったけどね……母さんの中では、すでに決定事項みたい。『しばらく留守にする』なんて言っていたから、少なくとも一泊ぐらいはしてくるんじゃないかな。避暑がわりにさ」
「……」
「また母さんの悪い病気が出たみたいなんだよ。どうせ、また泣かされるのはわかっているのにさ……僕がそう言ったら、母さんはカンカンに怒っちゃってさ。僕も頭冷やすつもりで、外に出てきたところなんだ……」
 僕は延々と恵美に愚痴をこぼしていました。単なる愚痴ならば、いくらでも言葉を紡げました。
「シュウちゃんは……金田さんのことが嫌いなの?」
「えっ……?」
 恵美が言った言葉は、僕には少々意外に感じられました。僕は必死に頭を働かせましたが、恵美に本心を隠せるようなうまい言葉が見つかりませんでした。
「……うん」
 なのでせめて、弱く小さく同意をしたのでした。
「そう……」
「……金田さんと、二人きりで話す機会が会ってさ」
「えっ……いつ?」
 恵美はなぜか驚いた顔をして、僕の方を見ました。僕はそれがまた、少し気にはなりましたが、かまわずに話を続けました。
「今日の昼間……偶然、街中でばったりとね。喫茶店に入って、コーヒーをごちそうになって……」
 僕はなるべく冷静に昼間のことを話そうと思いました。ですが、
「なんだか……怖くて」
「……」
 と、心情をそのままポツリと、口にしていました。それははからずも、恵美がさきほど不意に漏らした言葉とダブりました。
「母さんは、僕が世間知らずなだけ、人を見る目がないだけだって取り合わないけど、やっぱり怖いよ金田さんは。普段は猫かぶっているっていうか……自分の本心を覆い隠してさ……それに……」
「それに?」
「……なんでも自分の思い通りに物事を進めないと、気がすまないたちみたいだ。なによりあの人は人を見下している。自分が一番偉いと感じている。まわりは自分の言うことを聞いて当然なんだって思ってる……そんな人は……やっぱり怖いよ」
「……」
 なんだか、つい饒舌にもなってしまったように思います。すべて話した後で、急に恥ずかしくなって、僕は下を向いたまま歩きました。
「意外だね……」
 しばらくたってから、恵美が口を開きました。
「そんな風に話すシュウちゃんを、はじめて見た気がする」
「……」
 恵美の言葉に、ますます僕は小さくなってしまいました。
「だけど……たぶん、間違ってなんかいないと思う」
「えっ……?」
「シュウちゃんの言っていることが、当たっている……かもしれないよ」
「そうかな……」
 そんな恵美の言葉こそが、僕にとっては意外な反応でした。
「おばさんに、もう一度話してみたら? 旅行云々はともかくとして、シュウちゃんが感じている疑問や思いを、素直にぶつけてみるの……すぐには聞き入れてもらえないかもしれないけど、根気よく話し続けていれば、わかってくれるんじゃないかな。考え直してくれるきっかけになるかもしれないよ」
「うん……」
 ですが……そうこう話しているうちに、いつのまにか、恵美の家の前までたどり着いてしまっていました。なのでその話題は、僕の方から打ち切ってしまったんです……。
 
「……おじさんやおばさん、まだ帰っていないんだね」
 恵美の家の中は、真っ暗なままでした。人気なく、ひっそりとしています。
「うん……そうみたい」
 恵美は、また暗い表情に戻って答えました。恵美のご両親は、どうやらうちの母よりも、忙しい毎日を送っているんだなと、そのときはそんな間の抜けたことを考えていたのですが……。
「それじゃ……また……おやすみ」
「うん……送ってくれてありがとう……おやすみなさい」
 僕らは結局、玄関のところで別れてしまいました。
 僕が自宅へ戻ってみると、ちゃぶ台の上の食器は片付けられていました。すでに母はもう寝入ってしまったらしく、奥からは襖越しに、かすかないびきも聞こえていました。なので僕も、そのまま自分の部屋に戻って、布団にもぐりこんでしまいました。
 
 ……それからしばらくずっと、わが家で金田さんがらみの話がかわされることはなくなりました。母が話そうとしない限り、僕からその話題をふることは、ヤブ蛇のようにも思えましたので、僕はあえて何も言いませんでした。そして結局、恵美から受けた励ましの言葉は、無駄になってしまったんです。
 互いにかすかなしこりを残して、毎日が過ぎていきました。母の仕事はますます忙しくなり、旅行話は立ち消えにでもなったのだろうと、僕は漠然と思っていて……。
 
 そして突然、その日が……やって来たのです。
 「事件」の起きたその日が……やって来たのです。